カテゴリー「クラシック音楽」の401件の記事

2018年2月14日 (水)

ベームとカルロス・クライバーという指揮者~その聴衆の熱狂~

さとちゃんの中学生くらいの頃、1977年の指揮者カール・ベームとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との来日がありました。

 

さとちゃんは、その当時上手くはありませんでしたが、サッカー部にいました。

それで、その模様はNHKFM放送で実況生中継されました。

部活が終わると、その放送をカセット・テープに録音するために、走って家に帰ったものでした。

 

その時の、演目はベートーヴェンの第五交響曲「運命」と第六交響曲「田園」で、鳴りやまない拍手の中で、アンコール曲は、ベートーヴェンのレオノーレ序曲第三番でした。

 

それより前の1975年のベームとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との来日は、後で、ブラームスの交響曲第一番の演奏だけは全曲をNHKで放送されたものをビデオに撮り聴きました。

75年の来日でのこの演奏は、ベームの弛緩は見られず、物凄いドイツ的演奏でした。

 

ベームは、ライヴでは録音とは違い、素晴らしい演奏があるときがありました。

77年の来日の際も、弛緩などなくベートーヴェンの演目が、非常にドイツ的な演奏に満ちあふれていました。

またイタリア・歌劇団公演やウィーン・フォルクスオパーの公演に熱狂的な日本の聴衆の皆さんが、その演奏に魅了されました。

1970年代ベームとカラヤンが、二大巨匠でした。ベームとカラヤンの来日は、日本の聴衆に熱狂的に受け入れられました。

 

ベームの公演の終了後、多くの聴衆が、舞台に寄りベームに感動した聴衆は、熱狂的に拍手をしていました。これほどの日本の聴衆を熱狂させた指揮者は、1970年代には他にありませんでした。

 

その後の指揮者のカルロス・クライバーの人気ぶりと同じです。

 

こうした伝説の1970年代というものは、LPや録音媒体は、カセット・テープでしたが、今よりもクラシック音楽の愛好家は多かったものです。

 

クライバーの人気は日本以外の世界の聴衆にもスタンディングオベーションとブラボーの嵐を巻き起こしました。

日本での1986年の昭和人見記念講堂でのベートーヴェンの交響曲第四番と第七番アンコールでは、J.シュトラウスの「こうもり序曲」と早いポルカ「雷鳴と電光」でした。最後の終止でブラボーの嵐でした。ベームの時と同じように多くの聴衆が、舞台までクライバーに感動して押し寄せました。多くの女性のファンが、クライバーに舞台に駆け寄り、花束を渡していました。

 

これほどのカリスマ指揮者は過去に例がなく、ベームの解釈とは違いますが、もうこれほどのブラボーを取れる指揮者は出ないのではないかとも思います。クライバーについては過去の拙文をお読みいただけると幸いです。

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2018年2月 2日 (金)

私のクラシック音楽、古楽への音楽的スタンスと評論

昔のクラシック音楽の評論家で、丹羽氏がいました。読売新聞で、コンサート評を書いておられた音楽評論家です。

氏は、わかりやすく簡潔に評を書き、恣意的な発言としての評論はしませんでした。こうした姿勢というものは立派なものだと考えていました。

あるとき氏の講演があって聞いていたのですが、そうした真摯な評論を書く人でしたが、その実際の音楽の好みは面白いものでした。

なぜ、モーツァルトはまだしも、ベートーヴェンはあんなくどい終止の音楽を作ったのか。ベートーヴェンは嫌いだとの意も言っていたようでした。

氏は、許光俊氏のように評論に自分の好みを書く人ではありませんでした。が、自分の音楽の好みは厳然としてあり、氏は、個人的に嫌いな作曲家もあったようです。

でもそうした恣意的なことは一切述べないのが、丹羽氏の評論でした。

氏の姿勢というものは、大変立派なものだと、講演を聞いて思いました。

クラシックの音楽評論は、音楽を聴き音楽家の解釈がわかり、それを聴いていない読者にも通じるように書くことが基本だと思います。

だから何度も言うように、さとちゃんが、丹羽氏が聴いたコンサートに行ったならば、こういう解釈だったと思うことは同じです。

ただそれが、自分の好みであるかないかは別として、そうした恣意的なことは書かずにその演奏がどうなのかの解釈だけ書けばいいのです。私も丹羽氏も同じことを思うのは、音楽を聴く人で分かる人も同じ思いだと思います。

私が、ささやかながら、僭越ながら、評論を書くのは、一人でも多く音楽のわかる人が増え、提灯記事ばかりしか書けない雑誌に騙されないようになって欲しいなと思うことです。

そのために、簡潔で、適切な言葉を選び、どんな人でもわかるようにわかりやすく、書くことが良いことだと思っています。

その演奏家が気に入らなくても、どういう演奏解釈かということに力点を置くことは肝心なことです。

クラシック音楽鑑賞の演奏家の好き嫌いは、言うべきではないと思って書いてきました。

それが、真摯なクラシック音楽の評論の目指すべき道だと思います。

確かに、好みというものはあっても、それはなるべく表に出さず、これからも書いていく所存です。

私の知ってる人で、自分の気に入らない演奏家は、ダメな音楽家だと言い切る人がいます。そんなにひどいのかなと聴いてみると、まんざらではないことがあります。

趣味なのだから、音楽鑑賞に恣意的になってもよいでしょうが、真摯な音楽評論というのは、そうしたものとは無縁だと思います。

皆さんは、どうお考えでしょうか。

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2018年1月 2日 (火)

ウィーン・フィルニューイヤーコンサート2018指揮リッカルド・ムーティその演奏とほかの指揮者

明けましておめでとうございます。毎年のお正月が来て、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートでシュトラウス・ファミリーや今回はスッペの曲などが演奏されました。

今日は昨日放送されたこの演奏会をHDDに録画したものを聴きながら、書いています。

 

このムーティの演奏皆さんどう聴かれたでしょうか。

静かな部分では、上手くウィーン風を演出しています。この剛腕な指揮者、ムーティらしさが出ているのは、曲の終止の部分での切り方、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の強奏では、彼らしい強引さが聴かれるものの、ウィーン風にちりばめられています。

実際に、今回もウィーン的ではなかったという、聴衆の方には、一応ウィーン風であり、ある程度は、満足された方もいらっしゃるのではないかと思います。

 

毎年、ウィーリー・ボスコフスキーの指揮の時から放送は始まっていました。1975年のボスコフスキーの演奏は録音されていましたし、1950年代のクレメンス・クラウスの指揮のものもモノラルながら、スタジオ録音でしょう、三枚のCDがありますね。

 

1979年は、ウィリー・ボスコフスキーの退団記念の年の録音や1987年カラヤンの最初で最後の指揮でした。

1989年と1992年はカルロス・クライバーの指揮による録音があります。

そうした話題をさらった指揮者の間で、このリッカルド・ムーティとクラウディオ・アバドとズービン・メータが間をぬって指揮をしていました。

 

その後、古楽のニコラウス・アーノンクールや小澤征爾やバレンボイムなど多くの指揮者がこのコンサートで振ってきました。

 

それぞれのスタイルで、ウィーン風ではない演奏も数々ありましたが、それも新しい個性としてウィーンのシュトラウス・ファミリーのワルツやポルカを聴きました。

今回のムーティのような年齢の人は、もうウィーン風というウィンナ・ワルツを知っていますから、このようなウィーン風な演奏もできましょうが、彼自身ももっと昔に登場した時には、弦は精妙、透徹した響きで、こんな演奏ではなかったような気がします。

 

さとちゃんは、毎年言っていましたが、シュトラウス・ファミリーのウィンナ・ワルツを各指揮者による管弦楽曲として聴いたほうが良いのではないかと書いたこともあります。

このウィーンのワルツやポルカを今後どのように聴いていくべきかはわかりません。

今年もウィーン風ではなかったと嘆くのが正解なのか、各指揮者による管弦楽曲として聴いたほうが良いのかは、私には何とも言えません。

 

まあ野暮なことを言わずに、お屠蘇気分で、この一月一日のコンサートをたのしむのがいいのでしょうか。

今では、ウィーン・フィルにも女性の演奏者さえ登場します。あれだけ、産休等でウィーン・フィルの音が変わることをおそれたウィーン・フィルの楽団員も変わりました。

とにもかくにも明けましておめでとうございます。

またNHKに準拠する曲目を書いておきます。

放送予定曲目

ヨハン・シュトラウス作曲 : 喜歌劇「ジプシー男爵」から「入場行進曲」

ヨーゼフ・シュトラウス作曲 : ワルツ「ウィーンのフレスコ画」

ヨハン・シュトラウス作曲 : フランス風ポルカ「花嫁探し」

ヨハン・シュトラウス作曲 : ポルカ・シュネル「浮き立つ心」

ヨハン・シュトラウス(父)作曲 : マリアのワルツ

ヨハン・シュトラウス(父)作曲 : ウィリアム・テル・ギャロップ

フランツ・フォン・スッペ作曲 : 喜歌劇「ボッカッチョ」序曲

ヨハン・シュトラウス作曲 : ワルツ「ミルテの花」

アルフォンス・チブルカ作曲 : ステファニー・ガヴォット

ヨハン・シュトラウス作曲 : ポルカ・シュネル 「百発百中」

ヨハン・シュトラウス作曲 : ワルツ「ウィーンの森の物語」

ヨハン・シュトラウス作曲 : 祝典行進曲

ヨハン・シュトラウス作曲 : ポルカ・マズルカ「都会と田舎」

ヨハン・シュトラウス作曲 : 「仮面舞踏会」のカドリーユ

ヨハン・シュトラウス作曲 : ワルツ「南国のばら」

ヨーゼフ・シュトラウス作曲 : ポルカ・シュネル「短い言づて」

アンコール

 

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2017年12月15日 (金)

記述に誤りがありますよさんへのさとちゃんの見解

ホロヴィッツは、ミス・タッチがありますよとの指摘ですが、聴いていてCBS盤への録音のステレオ録音のことでしょうか。あれは、テープによるつぎはぎ録音であって、もう自宅録音のステレオ録音ではそのように、ごまかすしかないのでした。

 

では、RCA盤ではどうでしょうか。ものすごい感情移入と度を外れた物凄いフォルティシモでした。

はっきり言って、ピアノのサーカス芸人と言っては言い過ぎですが、絶対につぎはぎ録音ではなく、1950年代のモノラル録音をぜひ聴いてみてください。

 

また、ミス・タッチのことですが、1983年にホロヴィッツが、初来日した時の演奏会を私も見て聴いています。実際には、あれは、悪い言葉で言えば老人性の認知症ではないかと思います。

医師に勧められた薬を多く飲み、楽譜通りではなく、勝手に創作したのか、弾いていたのを見てもう終わった人だとの感想を持ちました。

 

その時の有名な故吉田秀和氏は、感想として「ひびの入った骨董品」との評でした。

楽譜を弾けていないのです。

 

その後

 

そして、故吉田秀和氏は、「ホロヴィッツを聴くとほかの演奏家は聞けない」との意を述べています。

私たちの仲間うちでは、氏は、会社からカネをもらったんだとの見解に達しました。

 

そして儲けるためにレコード会社は、モーツァルトのピアノ協奏曲等の録音をしました。

そして間もなく、亡くなりました。

 

リサイタル・ツアーもしていますし、トスカニーニの娘婿として大昔の録音ではチャイコフスキーのピアノ協奏曲をトスカニーニの出兵NBC交響楽団で、物凄い演奏で演奏してもいました。

ホワイト・ハウスにも招かれ、あの独特なピアノの音色を披露し、ツアーで相当もうけたのではないかと思われます。

 

でもホロヴィッツはホロヴィッツ。腐っても鯛だし、このような演奏のできる人は世界にはいません。

だからサーカス芸だという人もいる中、1950年代のカーネギー・ホールの半数は、おそれを抱いたピアニストばかりだという人もいました。

 

大体において、長年ピアノを弾いていくには指を水平に鍵盤を叩くそのホロヴィッツの音は驚異的なものですが、いくら何でもあの打鍵の強さで、そのように引いていたら、前述のように、ピアニスト人生が終わってしまいます。

 

よくホロヴィッツは、聴衆を最も恐れていたというほどの、ピアニストでありそうした意味で20世紀に名前の残るピアニストといえましょう。好き嫌いは問わず。

ロシアの音楽評論家で、コンペティションを受けず、成功した例は、ホロヴィッツとアイザック・スターンだけだとの見解を持つ人もいます。

 

もう一つ、ありましたね。水平に指をまっすぐ伸ばし弾いていくということは、コルトーが最初だとのご指摘。

 

もうEMIGRシリーズの録音はご存じだろうと思います。

私はコルトーのショパンのワルツ全集をLPで昔買いました。ホロヴイッツはたぶん、スタインウェイだと思われますが、コルトーはプレイエルのピアノだと思いますが、もうボロボロの録音でありました。

 

弾き飛ばしはするし、ミスタッチはあるし、聴いていて情けなくなりましたが、コルトーの演奏はそれ以前のものとしてのSP吹き込みのほうが、テクニック的には安定しているのでしょう。

 

コルトーは、カザルスと組んでの、カザルス・トリオでの演奏を懐かしく思う人も多いでしょうか。

 

アルフレッド・コルトーの功績は、フランス派のショパン演奏を確立した人であるということです。

 

ある知人が言っていたように、SP録音でのそれ以前の19世紀でのパデレフスキーやパハマンのような解釈ではなく、テンポ・ルバートを多用し、音を転がせていくショパンは、戦後のスタイルとして新しいショパン像を示したということです。

 

それが今日まで続く、ポーランド派のショパンではなく、サンソン・フランソワやルイ・サダにつながるフランス派のショパンなのです。

 

また、コルトーはドイツ音楽としてのワーグナーの演奏をフランスに紹介した人であってドイツ音楽にも傾倒しています。だから、フランス人の中には、ワーグナーを嫌う人もいましたが、そうした進取の気性のひとでもあります。

 

Ikuyo Nkamichi さんに関しては私はもう見解を申し上げたくありません。

結局、二回もベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を録音したバックハウスのような偉人のような人が多くいた昔のピアニストのように綺羅星のように素晴らしい感動を与えてくれた人と比較することがもう間違っています。

 

鍵盤の獅子王と呼ばれた人は、毎日練習を欠かさない立派な人でしたが、ファン・クラブを作るような人ではありません。

 

要するに、今の演奏家は中庸の中堅のピアニストばかりになったのでその中では、優れているとの特選なのでしょう。

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2017年11月25日 (土)

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の音色をパリ管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の音色にできる~オーケストラの機能性の問題~

何年か前に、指揮者の佐渡裕氏が、ベルリン・フィルを振ったときに、その時のベルリン・フィルの日本人のコンサートマスターが、佐渡氏にどんな音色が、欲しいのかを言ってくれれば、即座にその音色をベルリン・フィルが出しますと言っていたのが、印象に残っています。

指揮者のカラヤンとベルリン・フィルのコンビによる1970年代のカラヤン・ベルリンフィルのサウンドというものも、知っている方は少ないかもしれません。

弦の音ををスラーとヴィブラートで飾り、一見のっぺりとした感覚ですが、その美しさを知る人には、すべての名曲をカラヤンとベルリン・フィルで聴きたくなるようになる音楽性を聴く者すべてに与えてしまうような演奏です。またそのフォルティシモも物凄く聴く者を圧倒してしまいます。

でも、現在のサイモン・ラトルに薫陶されたベルリン・フィルは、ラモーのようなバロック音楽でも、弦は古楽奏法を実践していて、私はそのことに疑問を感じたことは、今までブログで書いていました。これでは、現代オーケストラのバロック・オーケストラの物まねではないかと現代オーケストラの簡便ながら、オリジナル主義から言ったらこれは、邪道ではないかと言った問題です。

ところで、よく言われることですが、ヨーローッパの二大オーケストラであるベルリンのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とウィーンのウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の元々の音色は、ベルリン・フィルではどす黒いロマン的な響きが現在の素の音色ですが、コンサートマスターによると、どのような音色でも各国や指揮者の好みで実際に即座に変えられるようです。ウィーン・フィルの元々の素の音は、ご存知の通り、明るいと言ってもフランス的ではなく、ウィーン的な甘い音色できらびやかな音色です。

指揮者の佐渡裕氏は、清冽、透明な音色を好んでいたので、そうしたかつてのドイツ的演奏を好まなかったので、佐渡氏自身の好きなように、ベルリンフィルは合わせていました。そこまでの機能性があるのです。

実際に、例えば、フランスの指揮者ならば、明るいラテン的な音色の青い音色を再現したいのなら、ベルリンフィルはそれもできます。

また、指揮者のサイモン・ラトルが、ウィーンのウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で試用したように、ウィーン・フィルをベルリン・フィルのドイツ的な音色に変えることもできます。

また何十年も前ですが、指揮者の故カルロス・クライバーの父である指揮者のエーリッヒ・クライバーは、契約上、ウィーン・フィルを使って録音できなかったので、戦前のSPレコードの時代に、ベルリン・フィルを使って、ウィンナ・ワルツをベルリン・フィルをウィーン・フィルのように指導して、ウィンナ・ワルツをウィーン風に録音したという実例もあります。

そうした意味で現在の、ドイツ、ベルリンのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の力量というものは、指揮者が一言いえば、指揮者の欲しい音色、解釈は即座に演奏できると言った力量、自信と言ったものはあると言えます。

昔はよく言われたものですが、ウィーン・フィルはウィーン的な演奏ではあるが、ウィーン・フィルは機能性で言ったら、ベルリン・フィルには敵わないと言われた時代が懐かしく感じられます。

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2017年9月24日 (日)

指揮者トスカニーニの音楽~感情移入を避けるその音楽づくり~

昔、トスカニーニという指揮者がいたのは、みなさんご存知だろうと思います。

恣意的な演奏を避けて、感情移入せずにクラシック音楽を演奏するという方法で、大きな成果を得て、戦前、戦後のモノラル録音の時代ですが、アメリカでもその演奏のラジオ放送があり、多くの人が魅了されました。

ここ何年かか、トスカニーニのワーグナーの管弦楽曲のステレオ録音が、唯一発見されて、話題を呼びました。

何度も書いているので、耳にタコができると言われそうですが、指揮者のフルトヴェングラーVSトスカニーニとも言われた時代もありました。

フルトヴェングラーは、即興的でその時の感情により、音楽の解釈が違い、ある意味で恣意的であり感情移入が多い解釈が話題を呼びました。一方トスカニーニは、楽譜に忠実に感情移入を嫌い、物凄い合奏力を持つNBC交響楽団でその理想を実現し、イタリア人でありながら、アメリカで活躍した指揮者であることは、ご存知でしょう。

たまたま、今日は、トスカニーニ指揮のNBC交響楽団の亡き父のLPでハイドンの交響曲101番の「時計」とモーツァルトの交響曲35番「ハフナー」の1950年の録音があり聴いています。

このトスカニーニという指揮者、今までも聴いたことはあるのですが、フォルテでの爆発力のある部分の解釈が、受け入れがたく今もその部分には、疑問を持たざるを得ないのですが、その合奏力やストレートに響いてくるこのトスカニーニの音楽は、非常に立派なものでした。

ハイドンやモーツァルトでのイタリア人としてなのか、感情に溺れずも滑らかに歌うところや桁外れの合奏力には敬服したいと思います。

ハイドンにしろモーツァルトにしろ、爆発するようなフォルテの解釈には、疑問をもっても、決して唾棄すべきものではなく、こうした演奏解釈もこうした行き方も合奏力があるために、モーツァルトの第二楽章では非常に美しいと思った次第です。

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2017年7月13日 (木)

モーツァルトはサヴァン症候群か否か!?

私は、この不毛な議論をしたくはないのです。

実際のところ、それも何百年も前に、亡くなった、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが、サヴァン症候群であったか、否かは確かめようはありません。

1985年頃録音された、その当時のローマのヴァチカンでの秘曲、アレッグリ作曲のミゼレーレ(われを憐れみたまえ)というボーイ・ソプラノのソロも入る、ア・カペラのルネサンス様式の作品があります。

この作品は、楽譜は門外不出であり、一般の人もモーツァルト自身も目にすることはできません。この作品を初めて聴いて、それを一音も逃さず、楽譜にしたという話があります。このことにより、年少で、ローマのアカデミー会員に推挙となったのは、バロック中期の作曲家アルカンジェロ・コレッリとモーツァルトだけです。

蒸し返すのは、良くないことですが、まえに諍いを起こした、サイトの方は、モーツァルトの作品の楽譜は、すらすら書かれているのは、間違いだと言われていました。

推敲に推敲に重ねて書いたので、モーツァルトは、そういう意味で、従来の説は間違っているというのです。

サヴァン症候群か否かといった説はどちらとも言えないし、確かめることはできません。

でも、モーツァルトのヴァチカンでの秘曲の楽譜おこしという、話を持って、これは音楽の天才と言って申し分ありません。

わたし、さとちゃんは、前、ウィキ・ペディアを読み、サヴァン症候群であろうとの結論を出しました。

皆さんも、モーツァルトのように秘曲を聴いてください。

本当にこの10分以上もある、宗教作品を初めて聴いて楽譜にしたというのなら、これは天才以外の何物ではないと言えると考えます。

さとちゃんのコレクションにあるCDは、以下のものです。

アレッグリ作曲 われを憐れみたまえ

ボーイ・ソプラノ ソール・クワーク

オルガン アンドルー・ライト

指揮スティーヴン・クリペリ

ウェストミンスター大聖堂聖歌隊

アーゴ 410005-2

もう一枚は

Allegri Miserere

coducted Stephen Cleobury   David Willcocks

Choir of King’s College,Cambridge

EMI 7243 5 75877 2 3

一枚目は、1112秒の録音時間、二枚目は13分ちょうどの演奏時間です。

機会があれば聴いてください。

サヴァン症候群と言える説もあるし、でも音楽の天才であることには間違いありません。

さとちゃんの読み物では、モーツァルトとサヴァン症候群 というお題が、人気ではあります。

が、さとちゃんの本音は、過去ログの クラシック音楽鑑賞と覗き見的事実 ~サヴァン症候群の嵐の後で~ に書いてありますので、是非ともお読みください。

http://classic-baroque.way-nifty.com/satocyan/2008/07/post-97a3.html

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2017年6月 4日 (日)

NHKFM 名演奏ライブラリー 没後20年 名指揮者ゲオルク・ショルティ(1)~その演奏~

ゲオルク・ショルティという指揮者を、若い方は、知らないかもしれません。

もう没後20年となるのですね。

シカゴ交響楽団を指揮し、日本にもたびたび来日していた指揮者です。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とも来日し、ベートーヴェンの交響曲第7番を演奏したこともありました。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が、ショルティを恐れていたことが如実にわかる演奏会でした。

思い通りにいかない、ウィーン・フィルにショルティはそっけなく、その当時のコンサートマスター、キュッヒルの顔は非常に緊張していたことを思い出します。

トスカニーニに絶賛された、ショルティの音楽は、聴いてみると、非常に透明、明晰で、20世紀に見られた過度な感情移入や表情付けとは、無縁です。

非常に音程もよく、透明度も高く、若い聴衆の方には、ショルティの音楽に共感を覚える方もいるかもしれません。

戦後話題になった、ショルティとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との録音による、ワーグナーのニーベルンクの指輪全曲の演奏も、かつてのフルトヴェングラーのような、ドイツ的な解釈ではなく、非常に明るい明晰な解釈で、恣意的なものはあまりなく、ショルティの録音は、話題となりました。

かなり前に、映像媒体で、ショルティのこの録音のリハーサル風景も発売されました。

ショルティは、ピアノが巧く、メロス弦楽四重奏団員とモーツァルトのピアノ4重奏曲の第一番と第二番をCD録音していたことがあり、その演奏のテクニックには、驚かされたものです。

この日曜日の朝9時からの二時間のショルティ特集は、来週も放送するようなので、過度な感情移入に疑問を覚える方たちには、こうした、20世紀の指揮者の音楽を聴くとよいかもしれません。


NHKのホーム・ページに完全に準拠する放送内容をそえておきます。2017年6月4日放送 NHK FM

  • 「歌劇“魔笛”K.620から アリア“恋人か女房があればいいが”」
    モーツァルト:作曲
    パパゲーノ…(バリトン)ウィリー・ドームグラーフ・ファスベンダー、(指揮)アルトゥーロ・トスカニーニ、(管弦楽)ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、(グロッケンシュピール)ゲオルク・ショルティ
    359秒)
    <デッカ 478 4884

    「バイオリン・ソナタ第9番 イ長調 作品47“クロイツェル”から 第1楽章」
    ベートーベン:作曲
    (バイオリン)ゲオルク・クーレンカンプ、(ピアノ)ゲオルク・ショルティ
    1035秒)
    <デッカ 473 127-2

    「歌曲集“白鳥の歌”D957から 第7曲“別れ”」
    シューベルト:作曲
    (テノール)マックス・リヒテック、(ピアノ)ゲオルク・ショルティ
    315秒)
    <デッカ 478 4884

    「“エグモント”序曲」
    ベートーベン:作曲
    (指揮)ゲオルク・ショルティ、(管弦楽)チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
    816秒)
    <デッカ 475 8525

    「組曲“ハーリ・ヤーノシュ”から 第2曲“ウィーンの音楽時計”、第6曲“皇帝と廷臣たちの入場”」
    コダーイ:作曲
    (指揮)ゲオルク・ショルティ、(管弦楽)バイエルン国立管弦楽団
    521秒)
    <デッカ 473 127-2

    「楽劇“ラインの黄金”から“ワルハラ城への神々の入場”」
    ワーグナー:作曲
    (指揮)ゲオルク・ショルティ、(管弦楽)ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウォータン…(バス)ジョージ・ロンドン、フリッカ…(ソプラノ)キルステン・フラグスタート、ローゲ…(テノール)セット・スヴァンホルム、ドンナー…(バリトン)エーベルハルト・ウェヒター、ウォークリンデ…(ソプラノ)オーダ・バルスボリ、ウェルグンデ…(メゾソプラノ)ヘティ・プリュマッハー、フロースヒルデ…(アルト)イーラ・マラニウク
    1013秒)
    <デッカ 448 933-2

    「交響曲第8番 変ホ長調“一千人の交響曲”から 第1部 賛歌“来たれ、創造主である聖霊よ”」
    マーラー:作曲
    (指揮)ゲオルク・ショルティ、(管弦楽)シカゴ交響楽団、(合唱)ウィーン国立歌劇場合唱団、(合唱)ウィーン楽友協会合唱団、(合唱)ウィーン少年合唱団、(ソプラノ)ヘザー・ハーパー、(ソプラノ)ルチア・ポップ、(アルト)イヴォンヌ・ミントン、(アルト)ヘレン・ワッツ、(テノール)ルネ・コロ、(バリトン)ジョン・シャーリー・カーク、(バス)マルッティ・タルヴェラ
    2310秒)
    <デッカ UCCD-6042

    「がんばれ、シカゴ・ベアーズ」
    ジェリー・ダウンズ:作曲
    ブードロー:編曲
    (指揮)ゲオルク・ショルティ、(管弦楽)シカゴ交響楽団、(合唱)シカゴ交響楽団合唱団
    126秒)
    Eloquence 480 6875

    「カンタータ・プロファーナ」
    バルトーク:作曲
    (指揮)ゲオルク・ショルティ、(管弦楽)ブダペスト音楽祭管弦楽団、(合唱)ハンガリー放送合唱団、(テノール)タマーシュ・ダローツィ、(バリトン)アレクサンドル・アガーケ
    1742秒)
    <デッカ 478 3706

    「交響曲第5番 嬰ハ短調から 第5楽章」
    マーラー:作曲
    (指揮)ゲオルク・ショルティ、(管弦楽)チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
    1438秒)
    <デッカ 475 8525

 

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2017年5月 5日 (金)

嘘をつくはてなブックマークとNHKのクラシック音楽放送について~そして芸大閥~

皆さん、面白いからやってください。
私の´ちょっとカゲキなクラシック評論’をグーグル検索してみてください。
はてなブックマークが出てきます。

芸大閥のことが書かれているのかとお思いでしょうが、その中身は、エリザベス朝ルネサンスのことで、芸大閥とは何も関係ありません。

そのうえ、とんちんかんに、芸大閥のことが反論できないとのコメント、めちゃくちゃです。

やっと、このサイトを潰そうとしている輩がいることが分かります。

芸大閥というのは、大体が、N響閥でしょう。

指揮者の言うことはきかない。

前は、ヴォルフガング・サバリッシュの指揮した、演奏会は出来が良く、ほかは、どんな指揮者であっても、気の抜けた演奏しかしなかったのです。

だから、サヴァリッシュの指揮したものだけ、良く他はN響自身が、勝手に弾いていたのが実態でした。

他の指揮者は、N響が、馬鹿にしていい加減に演奏していたのは実体です。

時々良い演奏もありますが、先にN響アワーを持ってきて良いコンサートの時だけです。

後の芸術劇場は、外国の良い演奏家のひどいライヴ演奏を持ってきて、N響は、優れているだろうとのアピールです。

いまでは、まるで、N響アワーだけになってしまい、誰も見る人はいません。

BSも酷いものです。

日曜の深夜にやっているクラシックの番組の時もありますが、大概が、4時間に渡るオペラで、昔のクラシック・ロイヤルシートと同じです。それも毎週ではありません。

そのうえ早朝放送している、BSのコンサートは、一時間にも満たない放送で、そのリサイタルの全容はやりません。

だれかが、ブログで言っていたように、前のように、地デジで、芸術劇場を戻してほしい。と盛んに書いておられました。

いまは、もう日曜日の夜放送する、いわゆる、N響アワーなるものと同じようなものは、入門者向けにはよいでしょうが、わたしやほかのクラシック通の人はだれ一人としてみていません。

そうしたことに危惧した、芸大閥の演奏家は、そうしたことを潰そうとしているのがわかります。

私の書いていることが公になれば、CD会社も困ります。

お里が知れるばかりか、NHK交響楽団という放送響に過ぎないオーケストラをもちあげるのは、もう通には、嘘だ。とわかっています。

すべてでたらめです。芸大のピアノ科を受験したとしましょう。
そのためには、芸大の教授に受験前にお金を出して、訓練してもらい芸大に合格するのです。
でも、音楽性はないので、基本には忠実でも、意味はありません。
そうした卒業生は、N響に入団するので、この芸大閥のプライドの高さは鼻持ちなりません。だから、指揮者の言うことを聞かなくなるのです。

一方、小澤征爾氏は、桐朋学園です。

実は、東京芸術大学より、桐朋学園の方が、偏差値は高いのです。海外で活躍している演奏家を見ると、桐朋が圧倒的に多く,東京芸大出の人は、まったくと言うほどいません。

要するに、日本の中だけで、井の中の蛙で、いい気になっているのが、NHK交響楽団です。日本の中だけでは、テクニックだけは一番だからです。

ただの放送響に過ぎないものが、指揮者を馬鹿にして本気を出さずに、基本だけに忠実な芸大閥の集まりが、N響なのです。

昔のイタリア歌劇団公演のころは、DVDで買って観てみると、名人のイタリア・オペラ職人指揮者が、振っており、N響も今よりも数倍貧弱なオケであっても、指揮者に合わせて、一生懸命に演奏していました。

その時の、外国に学ぼうとする姿勢は、本当に頭が下がるほど、N響は頑張っていたのにその後の傲慢ぶりには、本当に立腹します。

これが、日本のクラシック音楽の実態なのです。

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2017年5月 4日 (木)

http://classic-baroque.way-nifty.com/satocyan/さとちゃんの 本当のURL

わたしの、この、ちょっとカゲキなクラシック評論。
10年以上続けています。
実際に私の書くことに恐怖を感じる人々がいるのでしょう。

クラシック音楽を真摯にとらえていない人、金もうけオンリーの人、クラシック音楽を飯のタネにしている人。
言われては困る人。

私は、音楽を飯の種にしていません。

書かれては都合の悪い人がそうした、捏造を試みるのです。

いい加減に、音楽に真摯な態度を持ったらどうですかと言ったところで、飯のタネにしているのですから、できようはずもありません。

いい加減にして自分で分かっていることを誹謗されたら、飯のタネにしている人たちは困るでしょうが、本当のことはだれでもわかっているのですよ。

それと、さとちゃん,の、ちょっとカゲキなクラシック評論というブログは、もうURLがすでにもうかわてっいるのですよ。

それを昔のURLを使って、誹謗するのはやめてください。

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