カテゴリー「クラシック音楽」の407件の記事

2018年7月 2日 (月)

往年の指揮者オットー・クレンペラーの計算高さ~クレンペラーは尊敬に値する指揮者なのか~

一般論として考えてみたく思いました。

クレンペラーは、1972年に亡くなりましたが、結局来日せず、本当のコンサートは、映像としての媒体や、LPCDでしか聴くことはできませんでした。

彼が、録音するのは、娘の経済的なものによるものと言っており、あれだけ愛してやまなかった、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団についてもギャラの低さによって振らなかったということが現実でした。

聴いている方は、お判りでしょうが、遅いテンポを取りそのために、重厚感を出すことを無理なくオーケストラに要求します。そのためにドイツ的な構築感そして遅いテンポによる重厚感を何より大事にした巨匠として多くの昔の愛好家や評論家には、評価されました。

さとちゃんは、クレンペラーという指揮者を別格である名人指揮者であることは認めますが、最近、EMI録音を聴くにつれ計算して、計算高く音楽を造っていたのではないかと思うようになりました。

もしクレンペラーが、高潔な指揮者なら、EMIのブラームスの交響曲第一番の第一楽章のドイツ的な決めるべき重厚感が出せなかったら、きっとクレンペラーは、許諾しないか取り直しをするはずでしょう。

また、ワーグナーの歌劇ローエングリン第三幕への前奏曲でもトランペットが、ミスをしてもお構いなく録音しています。聴けばそのミスはある意味で致命的ともいえます。

当然のことながらスタジオ録音なのだから、クレンペラーが気付かないはずはありません。

でも許諾して、LPCDになっています。

彼は、脳腫瘍の手術の後、そううつ病になり、その時の気分により演奏も変わったともいわれます。

モーツァルトの交響曲第25番ト短調の1956EMI録音は、よくその勢いからよく名盤とされています。

ではすべてのモーツァルトの選集の交響曲は、早いテンポ設定なのかというとそういうわけでもありません。

多くの名録音が、クレンペラーにはありますが、彼の信念での録音ではなく、その当時のドイツ的重厚感が、聴衆や評論家に、今の時代の最良のドイツ的指揮者と評された理由ではないのではと思うようになりました。

映像も最近は販売され、様々なテスタメントレーベルでの録音もありますが、もう同名異演をこれ以上聴いてもあまり意味がないような気もします。

素晴らしい音楽造りである指揮者ではあることはやぶさかではないですが、何かここのところそう思うことがあります。

指揮者としての仕事が、素晴らしければよいので、それだけでよいのかもしれませんが。

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2018年5月26日 (土)

バロック音楽やルネサンス音楽や中世の音楽と一般のクラオタの世界

何度も言っていますが、これから面白い音楽としてのバロック音楽をぜひとも皆さんに聴いてもらいたいのです。

西洋音楽史において、古典派のモーツァルトやハイドンの交響曲を聴くのも良いでしょう。でも、その前の時代の西洋音楽史の音楽の時代は、聴くに値しない音楽ではなく、むしろこれが、西洋音楽史の一つの時代でもあるのです。

 

何度も先輩にも言いましたが、バロック音楽やルネサンス音楽の時代そして中世の時代の楽譜として残っているものは、最初は最終的にはグレゴリオ聖歌です。その時代から西洋音楽史が始まっているので、高々20世紀の初頭の今から150年ほどのハイドンやモーツァルトから後期ロマン派までですべてを語ろうとするから無理があるのです。

そのあとには、20世紀の音楽ととして1920年代から1930年代の新ウィーン学派や戦後の1950年代の前衛としての現代音楽があります。

 

音大生が、バッハの対位法がわからないとう言う人が九割にも及ぶことは、驚異的なことです。きっと、クラシックオタクと言われる方々は、ハイドンから、西洋音楽史が始まっていると思い込んでるのかもしれません。

 

 

フーガ的なバッハの理解にはまた演奏者は、楽譜から、様々な声部を引き出し、弾いていけばよい演奏と言えるのですが、そのバッハの二声のインヴェンションと三声のシンフォニアでさえ、音大生には、声部を引き分けることは実際には困難なのです。

 

これでは、対位法などわからずベートーヴェンのピアノ・ソナタを弾くには困難と言える、29番のハンマー・クラヴィーアも味わい深く弾くことはできません。

だから、音楽性を持ったピアノ音楽が、弾けないのです。すべて、西洋音楽史は、温故知新の音楽です。

 

古い音楽を捨て去り、新しい音楽の時代を造るにしても、新しい音楽は、今までの西洋音楽史をある程度踏襲したものです。

 

バロック音楽の時代の前の時代のルネサンス音楽の時代には、皆川達夫氏の言うところの多声部音楽、磯山雅氏言うところによる多旋律音楽が、幅を利かせていて、ブルゴーニュ学派としてフランスの北のブルゴーニュ公国の作曲家が、活躍していました。

 

でもルネサンス音楽は、多くの声部を持ちながらも、歌詞の強い表現力を持ったものではありませんでした。

 

そこでイタリアのフィレンツェのカメラータ(音楽でいう仲間たち)の作曲家たちが、1600年の前後から、作曲家のカッチーニなどの今でいうイタリアの古典歌曲、麗しのアマリッリなどの歌曲を造りだし歌詞をルネサンス音楽からバロック音楽への新しい潮流の作曲を始め、通奏低音を含めた新しい音楽のバロック音楽を作り出したのです。

 

その中でも、クラウディオ・モンテヴェルディが、ルネサンスの音楽であるマドリガーレと言う多声部音楽である合唱曲である作品と通奏低音と言うものを定着し、新しい音楽を造ろうとしていたのが、バロック音楽の時代です。

 

どちらにしろ、このバッハやヘンデルで終わる通奏低音を含む音楽は、はっきりとバロック音楽の時代と言え、古典派のハイドンやモーツァルトとは一線を画します。

 

そのあとには古典派の前に、前古典派という大バッハの息子たちの時代があり、ハイドンへとつながっていくのです。

 

もちろん、大バッハも19世紀にはメンデルスゾーンのマタイ受難曲の演奏により復活したと言われますが、彼の大バッハの出版楽譜による、平均律クラヴィーア曲集第一巻や第二巻やフランス風序曲等々多くの大バッハ作品は、忘れられてはおらず、常に19世紀にも、ピアノの練習用としての地位は築いていました。

 

ピアノ作品に限らず、モーツァルトの交響曲でも一番分かりやすい事例としてもちあげられるのは、41番の「ジュピター」の第四楽章です。ほかにもモーツァルトは多くの声部による対位法での音楽は捨て去っていないのです。聴きどころには、バッハの究極の対位法部分である、多くの声部のオーケストラでの掛け合い部分としての聴き所があります。

 

モーツァルトは、対位法を完全に捨てきったわけではなく、旋律重視の第一ヴァイオリンには、主旋律を弾かせる、ホモ・フォニーでありながら、その前の時代のフーガ的な部分での聴き所を造っています。

 

また、ベートーヴェンの交響曲第六番、「田園」でも鳥の鳴き声を模す部分があるのはご存知でしょう。これは、ルネサンス以降のバロック音楽でも、鳥の声を模倣する、例えば、ルネサンス音楽であるフランスの作曲家のジャヌカン作曲のその当時のシャンソンのマドリガルの「鳥の歌」を聴くと、これは、西洋音楽史の常々の伝統である自然と音楽との結びつきだとわかります。

ジャヌカン・アンサンブルで、昔クルト・ヴィスでもカウンター・テノールとして一員での録音があります。

 

ですから、古典派のハイドンやモーツァルト以前の前古典派時代バロック音楽の通奏低音の時代を経ての音楽という西洋音楽史の時代はもっと先に遡れるのであって、いっぺんにバッハやヘンデルになってしまうものではないことを知る必要があるのです。

 

今回は、もっと、バロック音楽の新しい演奏家の話でもしようかと思っていましたが、またの機会にいたしましょう。

 

中世・ルネサンス音楽とバロック音楽に関して、入門書には講談社現代新書による、皆川達夫氏による本が、平易であり、読まれることをお勧めします。

 

マルタンやガッティやエルヴェ・ニケを書こうとも思いましたが、筆の都合上、ハイドン以前に一度触れていくべきだとの見解に達し、書きました。

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2018年5月14日 (月)

ブロムシュテット特集 2018年5月13日放送Eテレ~その演奏について~

久しぶりに、ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とバンベルク交響楽団が聴けるとあって、Eテレを見てみました。

ブラームスのブロムシュテットによるドイツ・レクイエム。

聴いてみて、ソプラノ歌手やバリトン歌手は割と歌唱もよいとの感じを受けました。

ただ、ブロムシュテットの指揮によるドイツ・レクイエム。悪くはないもののそれほど、感動を受けるものでもないような気がします。何か流れるままに演奏され悪い演奏ではないかもしれませんが、何かを訴えるような音楽とは思えませんでした。

聴いていて、もっと心に訴えかけるような演奏を期待していたのですが、気をそがれたような気がしました。

普段は、FMでもテレビでの演奏や、行ったコンサートで、あまり感動を受けなかったときは、書かないことにしているのですが、そのあとのバンベルク交響楽団とのブロムシュテットのベートーヴェンの交響曲第5番「運命」についての意見を述べさせてください。

なぜ、ブロムシュテットは、名門バンベルク交響楽団に古楽奏法を強要するのでしょうか。

前から、大きなダイナミック・レンジを持つ現代の楽器である現代オーケストラに古楽奏法を強要するのでしょうか。

何度も言っているように現代オーケストラは、現代のヴァイオリン、19世紀以来の大きな音量が出る特徴を生かして、例として指揮者のカラヤンでも驚異的なフォルティシモを持っていたし、ピアニッシモも出せるそのダイナミック・レンジの広さにおいて無限の可能性を持つものです。

18世紀のバロック音楽やモーツァルトの時代までの古楽器のコピーやオリジナルのその当時のバロック・ヴァイオリン等の古楽器によるバロック・オーケストラとは根本的に違います。

かつての20世紀の時代には、古楽のブリュッヘンは、現代オーケストラも古楽奏法をすべきだとの主張持っていました。またアーノンクールも数々のアーティキュレーションを駆使し、それが的を得た演奏か否かは別としてその影響を受けた一般の指揮者も多く指揮者のコウトもそうでした。

レオンハルトについては、バロック・オーケストラには、そうした主張をしていましたが、現代オーケストラに古楽奏法を強要することはなかったような気がします。

どちらにしろこの三人は、もう亡くなってしまいました。何も現代オーケストラに音量を抑えて、演奏させる必要がどこにありましょう。

現代ヴァイオリンなのだから、ほかの楽器も20世紀の19世紀の大きなホールでの演奏会での演奏に耐えられるような、ストラディヴァリウスであっても、17世紀に造られたバロック・ヴァイオリンに改造して大きな音量を出す改造をしているので、大きな音量が出るのです。

それをバロック・オーケストラのような、こじんまりした音量にしてしまうのは、もったいないと考えるのです。

それならば、バロック・オーケストラで、古楽奏法を行えばよいのです。いくらでも、古楽器を使ったバロック・オーケストラはあるのです。そうしたバロック・オーケストラ常設のものも多くありますから、普通の現代オーケストラを指揮していた指揮者でもいくらでも振ることはできるし、古楽奏法は、バロック・オーケストラなら当たり前のことなので、その方が良いとおもいませんか。

せっかく大きな音量を出せる現代オーケストラなら、普通の20世紀のようにビブラートを多く使って美しい大きな響きを造るべきではないでしょうか。

指揮者が、そんなに古楽奏法にこだわるのなら、常設のバロック・オーケストラで演奏すれば問題はありません。ピッチの問題はありますが、その方が自然ではないでしょうか。

オイゲン・ヨッフムの指揮による、バンベルク交響楽団は本当に素晴らしいしぶい弦を持った良い現代オーケストラでした。その音が聴きたかったのに、ブロムシュテットによる演奏は古楽奏法そのものでした。

現代オーケストラに古楽奏法を強要することは、その現代オーケストラの20世紀の伝統的な音楽演奏としていた指揮者の勝手な、その当時の音を再現するために、奏法をまねるだけのものであって悪しき演奏法だと思います。

安易に現代オーケストラに古楽奏法を強要するのではなく、それが新しい潮流だと言いたいのでしょうが、当時の楽器の古楽器を使いその当時の美意識、良い趣味による、当時の音楽を再現することが、オリジナル主義と言われる、ブリュッヘン、アーノンクール、レオンハルトなど多くの古楽器奏者による一つの理想でした。

皆さんは、現代オーケストラに古楽奏法をさせて、古楽器のバロック・オーケストラのような響きやアーティキュレーションを様々に変えることが、新しい潮流だと言われる方もありましょうが、このことは誤りだと思います。

現代オーケストラとバロック・オーケストラとは根本的に違う楽器なのだから、指揮者のサイモン・ラトルにも、18世紀のラモーを演奏するなら、ベルリン・フィルではなく、バロック・オーケストラで実験してもらいたいとも思います。

現代オーケストラとバロック・オーケストラとの棲み分けはするべきだと思います。

NHKに準拠する演目を添えておきます。

20185月13日(日)放送
ブロムシュテット特集★
<ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団「ドイツ・レクイエム」演奏会>


2017年NHK音楽祭の公演。Eテレ初登場です。
名演と評判を呼んだ、巨匠渾身の「ドイツ・レクイエム」をどうぞ。

■ドイツ・レクイエム 作品45(ブラームス)

ソプラノ : ハンナ・モリソン
バリトン : ミヒャエル・ナジ
合 唱 : ウィーン楽友協会合唱団
管弦楽 :ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
指 揮 : ヘルベルト・ブロムシュテット
(2017年11月13日 NHKホールで収録)


<バンベルク交響楽団演奏会から>

■交響曲第5番ハ短調 作品67(ベートーベン)

管弦楽 : バンベルク交響楽団
指   揮 : ヘルベルト・ブロムシュテット
(2016年11月1日 愛知県芸術劇場コンサートホールで収録)

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2018年5月13日 (日)

モーツァルトの交響曲第31番「パリ」の聴き比べ~ベームとベルリン・フィル&クレンペラーとフィルハーモニア管弦楽団~

今日は、時間があったので久しぶりに、LPを取り出し、指揮者カール・ベームとベルリン・フィルとのモーツァルトの交響曲全集の中から、1968年の録音のそのドイツ・グラムフォン盤を聴いてみました。三楽章の短い作品なので、20分位の間聴いてみました。昔、買ったLPです。

ベームの透明な弦の響き、すっきりした構成美とドイツ的な構築感があり、聴いていても疲れない優れた録音です。また、第二楽章もすっきりとした中にも、楽譜の深い読み込みと作品に対するベームの巧みさと共に彼のモーツァルトの交響曲に対する姿勢が、如実にわかります。

大体においてさとちゃんが思うに、モーツァルトの交響曲を演奏する場合は、指揮者の第二楽章を聴けばある程度わかると思います。この第二楽章の緩徐楽章を上手く演奏できなければ、モーツァルトの交響曲を振る資格はないと言えると思います。

 

そういう意味では、この録音は、古い録音と言っても価値のある録音です。

ベームのこの録音を聴いて、手元にあるオットー・クレンペラーのEMI録音のスタジオ録音でも「パリ」を聴いてみようと思い昔買ったCDでのモーツァルトの交響曲集の4枚組中でのクレンペラー指揮のフィルハーモニア管弦楽団の1963年録音を聴いてみたくなり聴いてみました。

今、テスタメントのレーベルでおびただしい数のクレンペラーのライヴ録音などが発売されています。さとちゃんの世代よりももう少し前には、クレンペラーの人気は、非常に高く、結局来日はしなかったのですが、絶大な支持を集めていました。

不屈の精神で何度も事故や病気を乗り越えながら、感動的な音楽を造っていました。

昔はバロック音楽ばかり聴いていましたので、クレンペラーは聴いてみたことはなかったのですが、

ハイドンの交響曲の軍隊をアンタル・ドラティ指揮のフィルハーモニア・フンガリカの爽やかな颯爽とした解釈を聴いていましたが、ある方が、その軍隊を、クレンペラー指揮のフィルハーモニア管弦楽団で聴かせてくれました。非常に風格のあるハイドンの第100番の交響曲「軍隊」を聴き驚いたものです。

クレンペラーの重厚な音作りというもの、その当時のドイツのロマン的な音作りともいえるので、若い方は敬遠されるかもしれません。でも、基本的にはイン・テンポで、フルトヴェングラーのような恣意的なところはなく、一定のテンポは崩さないので、若い方には音作りには不満があっても、一時代を築いた指揮者でした。

なにしろ1920年代1930年代にベルクのヴォツエックなどのオペラやマック・ザ・ナイフで知られる三文オペラやシェーンベルクなどの現代音楽を指揮してきた人です。モーツァルトやハイドンなどお茶の子さいさいだったのかもしれません。

前置きがながくなってしまいました。モーツァルトの交響曲「パリ」のクレンペラー盤は、もう最初から重厚な響きで、ベーム盤とは違います。ベームのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団はすっきりした音作りですが、ここでもう、クレンペラーとの違いは判ります。

ベーム同様、楽譜の読みは深く、ちょっとした、第一楽章のピチカート部分を音楽に埋没させずに少し際立たせたり、非常に巧みな演奏です。またベームと違って第一ヴァイオリンを左に、第二ヴァイオリンを右に配置しているので、その19世紀のオーケストラの配置に従っているために対比ができ大変面白いとも言えます。昔よく聴いていた盤ですが、クレンペラーの音作りは、感動的な響きとも言えるかもしれません。ベームのさっぱりした透明な音造りのモーツァルトとも違い、重厚でありながら、第二楽章の恣意的ではないものの、非常に深い音楽造りをしているこの第二楽章も優れたものだとおもいます。

今ならもう古楽器によるホグウッドやピノック指揮の演奏もあり、新しいモーツァルト像を示してくれる指揮者が多いですが、昔の録音を聴いてみると、ベームにしろクレンペラーにしろ、名人指揮者だったなあと感慨深いものがありました。

若い方には古い録音では、ありますが、こうした録音も一聴に値すると思います。

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2018年4月27日 (金)

ドヴォルザークのスラヴ舞曲の聴き比べ~ターリヒ、アンチェル、ノイマン、クーベリック、マーカルとチェコ・フィル~

ここのところ、今の指揮者マーカルがチェコ・フィルハーモニー管弦楽団を振った録音が、昔のチェコ・フィルのオーケストラのように、精妙で透明な響きを魅せていると評判です。

チェコ・フィルの昔の響きに戻ったとのことです。

 

ターリヒ指揮チェコ・フィルのスラヴ舞曲は、これも深いもので音楽的には、表情付けもありますが、なかなかに味わいのある演奏です。オーケストラのチェコ・フィルも昔の音で精妙です。1950年の録音です。

 

アンチェル指揮のチェコ・フィルも伝統的にターリヒの影響もあるのでしょうか、精妙でしかも音楽的に深い演奏です。1955年録音です。

 

さてそのあとの、ヴァーツラフ・ノイマン指揮のチェコ・フィルのスラヴ舞曲はどうでしょうか。

1982年にノイマン・チェコ・フィルの演奏会を聴きに行った覚えがありました。

ドヴォルザークの交響曲第8番イギリスだったような気がします。チェコ・フィルの弦は、滑らかな、いぶし銀の一糸乱れぬ演奏で弦についての強力なしなやかな演奏を覚えています。精妙、透明ではなく、音色的には、暖かい歌う性質をもった非常にテクニックを持ったものです。

スラヴ舞曲の第一集を持っていますが、音楽的には全者の二人よりも深くはないかもしれませんが 、非常に強力なオーケストラでした。ここで、チェコ・フィルの音は変わったのです。

まだ、ソ連と欧米諸国との対立であったその当時、東の共産圏にあった東欧のチェコ・フィルとノイマンとのコンビは一つの良き時期だったと思います。

 

冷戦が終わり、1989年にベルリンの壁が崩され、自由化したソ連や東欧諸国チェコ・スロヴァキアは、独立して、チェコ・フィルもチェコ・フィルとスロヴァキア・フィルとに別れてしまい、ノイマンの時代はおわりました。

 

そうした、そのずっと後、チェコ・フィルをターリヒやアンチェルの時代の音に変えたのが、指揮者のマーカルでした。

 

チェコが、ソ連がなくなり、共産圏から離脱してから、指揮者の亡命していたラファエル・クーベリックが、直後にチェコ・フィルを振りスメタナの連作交響詩、モルダウを含む、わが祖国を演奏したことを思い出す方もいるかもしれません。

 

このクーベリック指揮によるバイエルン放送交響楽団によるスラヴ舞曲も良い演奏です。第一集第二集とありますが、弦が透明な響きのバイエルン放送交響楽団も深い演奏ですが、あまり表情付けはなく、精妙な演奏であり、美しい現代的な演奏と言えるでしょう。

 

クーベリックの指揮バイエルン放送交響楽団によるモーツァルトの6大交響曲のスタジオ録音も非常にアンサンブルのバランスの取れた非常に精妙な美しい演奏でした。

 

なんとなく、スラヴ舞曲で、様々な録音を聴いてみた次第です。

 

皆さんはどう思われますか。

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2018年3月23日 (金)

クラシック音楽とバロック音楽~なぜ古楽はこれほど人気がないのか~

クラシック音楽のコアな趣味の人は、同じ作品を様々な演奏家で聴いて、その違いを楽しむわけですが、どのような解釈を魅せるかを指揮者や演奏家で様々な演奏を聴くのが狙いです。

そのためには、同じ作品であり同じ楽譜でなければいけませんし、新しい楽譜の校訂があればその作品をその新しい楽譜で演奏し録音するのが意義のある行為でもあります。

古くてもいいところでバッハ以降の音楽を聴くことが多いようです。

このように作品自体の楽譜をもとに、多くの演奏家の演奏があり楽譜を逸脱してはなりません。

ですから、すべて同じ作品なので、その楽しみは比較です。

再現芸術とは同じ楽譜を演奏することを前提にしているわけです。この20世紀の時代21世紀の時代それをもとに多くの100年以上昔の古典となった作品の演奏会や録音がされてきました。

ですから、様々な演奏がありますが、もう新しい録音を聴いた耳でも、同じオーケストラの作品でも楽器はほとんど変わっていませんから、1930年代のワインガルトナーのベートーヴェンの交響曲もモノラルではありますが、カルロス・クライバーのベートーヴェンの交響曲とを比較して楽しむこともできるので例えば録音のある限り、古い録音の方が、モノラルであっても良い演奏だということもできますね。

さとちゃんは、バロック音楽も好きですが、ある時スーパーでバロック音楽の古楽器の録音をBGMにしているのを聴きながら買い物をしてみると何か違和感がありました。

それが、モーツァルトの作品で現代楽器での、BGMなら何かしっくりときて高級感が醸し出されたのです。なぜなのかはわかりませんが。

さとちゃんは、バロック音楽が大好きで、古楽器の演奏が好きですが、どういうわけかその場に浮いてしまう。

なぜなのかがわからないのですが、古楽器だと家やコンサートで聴いている分にはいいですが一般の場だと古楽器の音の違和感とバロック音楽との相性が悪いようです。

でももしベートーヴェンの交響曲の運命だったら、これも違和感があるかもしれません。

ということは、作品によるとも言えるかもしれませんが。

バロック音楽はそうした再現芸術とは、根本的に違います。装飾が施せない演奏は、今の研究では、その時代の演奏ではありえませんし、楽譜通りではなく、その場の演奏者の数によって、さまざまに楽器を使っても構いません。ですから、比較の対象には、楽器の数や装飾、リアリゼーションもその場で決めても良い時代でした。

通奏低音も装飾をつけても構いません。

ですから、同じ楽譜に依拠はしていないのが、その時代のバロック音楽です。

でもバッハは、ヴァイオリンとオブリガード・チェンバロ(必須なチェンバロ)との作品ではチェンバロの右手も左手も全部楽譜化しているので、ほかの演奏との比較ができます。

 ほかのバッハのフルートと通奏低音のためのソナタでは、装飾を入れてもいいように、通奏低音の例えばチェロとチェンバロに完全な楽譜化をしていないので、装飾の余地はあります。もちろんヴァイオリンも同じでゆっくりした楽章では、装飾を入れたり、早い楽章でも入れてもいいのです。それは自分自身の装飾であっても、その当時の市販されたそうした楽譜を使ってもいいのです。

そこが、再現芸術の比較と言ったときに、モーツァルトやベートーヴェンとは違うので、バロック音楽は敬遠されるのでしょうか。

バロック音楽好きの私にはよくわかりません。

みなさんはどう考えられますか。

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2018年2月14日 (水)

ベームとカルロス・クライバーという指揮者~その聴衆の熱狂~

さとちゃんの中学生くらいの頃、1977年の指揮者カール・ベームとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との来日がありました。

 

さとちゃんは、その当時上手くはありませんでしたが、サッカー部にいました。

それで、その模様はNHKFM放送で実況生中継されました。

部活が終わると、その放送をカセット・テープに録音するために、走って家に帰ったものでした。

 

その時の、演目はベートーヴェンの第五交響曲「運命」と第六交響曲「田園」で、鳴りやまない拍手の中で、アンコール曲は、ベートーヴェンのレオノーレ序曲第三番でした。

 

それより前の1975年のベームとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との来日は、後で、ブラームスの交響曲第一番の演奏だけは全曲をNHKで放送されたものをビデオに撮り聴きました。

75年の来日でのこの演奏は、ベームの弛緩は見られず、物凄いドイツ的演奏でした。

 

ベームは、ライヴでは録音とは違い、素晴らしい演奏があるときがありました。

77年の来日の際も、弛緩などなくベートーヴェンの演目が、非常にドイツ的な演奏に満ちあふれていました。

またイタリア・歌劇団公演やウィーン・フォルクスオパーの公演に熱狂的な日本の聴衆の皆さんが、その演奏に魅了されました。

1970年代ベームとカラヤンが、二大巨匠でした。ベームとカラヤンの来日は、日本の聴衆に熱狂的に受け入れられました。

 

ベームの公演の終了後、多くの聴衆が、舞台に寄りベームに感動した聴衆は、熱狂的に拍手をしていました。これほどの日本の聴衆を熱狂させた指揮者は、1970年代には他にありませんでした。

 

その後の指揮者のカルロス・クライバーの人気ぶりと同じです。

 

こうした伝説の1970年代というものは、LPや録音媒体は、カセット・テープでしたが、今よりもクラシック音楽の愛好家は多かったものです。

 

クライバーの人気は日本以外の世界の聴衆にもスタンディングオベーションとブラボーの嵐を巻き起こしました。

日本での1986年の昭和人見記念講堂でのベートーヴェンの交響曲第四番と第七番アンコールでは、J.シュトラウスの「こうもり序曲」と早いポルカ「雷鳴と電光」でした。最後の終止でブラボーの嵐でした。ベームの時と同じように多くの聴衆が、舞台までクライバーに感動して押し寄せました。多くの女性のファンが、クライバーに舞台に駆け寄り、花束を渡していました。

 

これほどのカリスマ指揮者は過去に例がなく、ベームの解釈とは違いますが、もうこれほどのブラボーを取れる指揮者は出ないのではないかとも思います。クライバーについては過去の拙文をお読みいただけると幸いです。

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2018年2月 2日 (金)

私のクラシック音楽、古楽への音楽的スタンスと評論

昔のクラシック音楽の評論家で、丹羽氏がいました。読売新聞で、コンサート評を書いておられた音楽評論家です。

氏は、わかりやすく簡潔に評を書き、恣意的な発言としての評論はしませんでした。こうした姿勢というものは立派なものだと考えていました。

あるとき氏の講演があって聞いていたのですが、そうした真摯な評論を書く人でしたが、その実際の音楽の好みは面白いものでした。

なぜ、モーツァルトはまだしも、ベートーヴェンはあんなくどい終止の音楽を作ったのか。ベートーヴェンは嫌いだとの意も言っていたようでした。

氏は、許光俊氏のように評論に自分の好みを書く人ではありませんでした。が、自分の音楽の好みは厳然としてあり、氏は、個人的に嫌いな作曲家もあったようです。

でもそうした恣意的なことは一切述べないのが、丹羽氏の評論でした。

氏の姿勢というものは、大変立派なものだと、講演を聞いて思いました。

クラシックの音楽評論は、音楽を聴き音楽家の解釈がわかり、それを聴いていない読者にも通じるように書くことが基本だと思います。

だから何度も言うように、さとちゃんが、丹羽氏が聴いたコンサートに行ったならば、こういう解釈だったと思うことは同じです。

ただそれが、自分の好みであるかないかは別として、そうした恣意的なことは書かずにその演奏がどうなのかの解釈だけ書けばいいのです。私も丹羽氏も同じことを思うのは、音楽を聴く人で分かる人も同じ思いだと思います。

私が、ささやかながら、僭越ながら、評論を書くのは、一人でも多く音楽のわかる人が増え、提灯記事ばかりしか書けない雑誌に騙されないようになって欲しいなと思うことです。

そのために、簡潔で、適切な言葉を選び、どんな人でもわかるようにわかりやすく、書くことが良いことだと思っています。

その演奏家が気に入らなくても、どういう演奏解釈かということに力点を置くことは肝心なことです。

クラシック音楽鑑賞の演奏家の好き嫌いは、言うべきではないと思って書いてきました。

それが、真摯なクラシック音楽の評論の目指すべき道だと思います。

確かに、好みというものはあっても、それはなるべく表に出さず、これからも書いていく所存です。

私の知ってる人で、自分の気に入らない演奏家は、ダメな音楽家だと言い切る人がいます。そんなにひどいのかなと聴いてみると、まんざらではないことがあります。

趣味なのだから、音楽鑑賞に恣意的になってもよいでしょうが、真摯な音楽評論というのは、そうしたものとは無縁だと思います。

皆さんは、どうお考えでしょうか。

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2018年1月 2日 (火)

ウィーン・フィルニューイヤーコンサート2018指揮リッカルド・ムーティその演奏とほかの指揮者

明けましておめでとうございます。毎年のお正月が来て、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートでシュトラウス・ファミリーや今回はスッペの曲などが演奏されました。

今日は昨日放送されたこの演奏会をHDDに録画したものを聴きながら、書いています。

 

このムーティの演奏皆さんどう聴かれたでしょうか。

静かな部分では、上手くウィーン風を演出しています。この剛腕な指揮者、ムーティらしさが出ているのは、曲の終止の部分での切り方、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の強奏では、彼らしい強引さが聴かれるものの、ウィーン風にちりばめられています。

実際に、今回もウィーン的ではなかったという、聴衆の方には、一応ウィーン風であり、ある程度は、満足された方もいらっしゃるのではないかと思います。

 

毎年、ウィーリー・ボスコフスキーの指揮の時から放送は始まっていました。1975年のボスコフスキーの演奏は録音されていましたし、1950年代のクレメンス・クラウスの指揮のものもモノラルながら、スタジオ録音でしょう、三枚のCDがありますね。

 

1979年は、ウィリー・ボスコフスキーの退団記念の年の録音や1987年カラヤンの最初で最後の指揮でした。

1989年と1992年はカルロス・クライバーの指揮による録音があります。

そうした話題をさらった指揮者の間で、このリッカルド・ムーティとクラウディオ・アバドとズービン・メータが間をぬって指揮をしていました。

 

その後、古楽のニコラウス・アーノンクールや小澤征爾やバレンボイムなど多くの指揮者がこのコンサートで振ってきました。

 

それぞれのスタイルで、ウィーン風ではない演奏も数々ありましたが、それも新しい個性としてウィーンのシュトラウス・ファミリーのワルツやポルカを聴きました。

今回のムーティのような年齢の人は、もうウィーン風というウィンナ・ワルツを知っていますから、このようなウィーン風な演奏もできましょうが、彼自身ももっと昔に登場した時には、弦は精妙、透徹した響きで、こんな演奏ではなかったような気がします。

 

さとちゃんは、毎年言っていましたが、シュトラウス・ファミリーのウィンナ・ワルツを各指揮者による管弦楽曲として聴いたほうが良いのではないかと書いたこともあります。

このウィーンのワルツやポルカを今後どのように聴いていくべきかはわかりません。

今年もウィーン風ではなかったと嘆くのが正解なのか、各指揮者による管弦楽曲として聴いたほうが良いのかは、私には何とも言えません。

 

まあ野暮なことを言わずに、お屠蘇気分で、この一月一日のコンサートをたのしむのがいいのでしょうか。

今では、ウィーン・フィルにも女性の演奏者さえ登場します。あれだけ、産休等でウィーン・フィルの音が変わることをおそれたウィーン・フィルの楽団員も変わりました。

とにもかくにも明けましておめでとうございます。

またNHKに準拠する曲目を書いておきます。

放送予定曲目

ヨハン・シュトラウス作曲 : 喜歌劇「ジプシー男爵」から「入場行進曲」

ヨーゼフ・シュトラウス作曲 : ワルツ「ウィーンのフレスコ画」

ヨハン・シュトラウス作曲 : フランス風ポルカ「花嫁探し」

ヨハン・シュトラウス作曲 : ポルカ・シュネル「浮き立つ心」

ヨハン・シュトラウス(父)作曲 : マリアのワルツ

ヨハン・シュトラウス(父)作曲 : ウィリアム・テル・ギャロップ

フランツ・フォン・スッペ作曲 : 喜歌劇「ボッカッチョ」序曲

ヨハン・シュトラウス作曲 : ワルツ「ミルテの花」

アルフォンス・チブルカ作曲 : ステファニー・ガヴォット

ヨハン・シュトラウス作曲 : ポルカ・シュネル 「百発百中」

ヨハン・シュトラウス作曲 : ワルツ「ウィーンの森の物語」

ヨハン・シュトラウス作曲 : 祝典行進曲

ヨハン・シュトラウス作曲 : ポルカ・マズルカ「都会と田舎」

ヨハン・シュトラウス作曲 : 「仮面舞踏会」のカドリーユ

ヨハン・シュトラウス作曲 : ワルツ「南国のばら」

ヨーゼフ・シュトラウス作曲 : ポルカ・シュネル「短い言づて」

アンコール

 

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2017年12月15日 (金)

記述に誤りがありますよさんへのさとちゃんの見解

ホロヴィッツは、ミス・タッチがありますよとの指摘ですが、聴いていてCBS盤への録音のステレオ録音のことでしょうか。あれは、テープによるつぎはぎ録音であって、もう自宅録音のステレオ録音ではそのように、ごまかすしかないのでした。

 

では、RCA盤ではどうでしょうか。ものすごい感情移入と度を外れた物凄いフォルティシモでした。

はっきり言って、ピアノのサーカス芸人と言っては言い過ぎですが、絶対につぎはぎ録音ではなく、1950年代のモノラル録音をぜひ聴いてみてください。

 

また、ミス・タッチのことですが、1983年にホロヴィッツが、初来日した時の演奏会を私も見て聴いています。実際には、あれは、悪い言葉で言えば老人性の認知症ではないかと思います。

医師に勧められた薬を多く飲み、楽譜通りではなく、勝手に創作したのか、弾いていたのを見てもう終わった人だとの感想を持ちました。

 

その時の有名な故吉田秀和氏は、感想として「ひびの入った骨董品」との評でした。

楽譜を弾けていないのです。

 

その後

 

そして、故吉田秀和氏は、「ホロヴィッツを聴くとほかの演奏家は聞けない」との意を述べています。

私たちの仲間うちでは、氏は、会社からカネをもらったんだとの見解に達しました。

 

そして儲けるためにレコード会社は、モーツァルトのピアノ協奏曲等の録音をしました。

そして間もなく、亡くなりました。

 

リサイタル・ツアーもしていますし、トスカニーニの娘婿として大昔の録音ではチャイコフスキーのピアノ協奏曲をトスカニーニの出兵NBC交響楽団で、物凄い演奏で演奏してもいました。

ホワイト・ハウスにも招かれ、あの独特なピアノの音色を披露し、ツアーで相当もうけたのではないかと思われます。

 

でもホロヴィッツはホロヴィッツ。腐っても鯛だし、このような演奏のできる人は世界にはいません。

だからサーカス芸だという人もいる中、1950年代のカーネギー・ホールの半数は、おそれを抱いたピアニストばかりだという人もいました。

 

大体において、長年ピアノを弾いていくには指を水平に鍵盤を叩くそのホロヴィッツの音は驚異的なものですが、いくら何でもあの打鍵の強さで、そのように引いていたら、前述のように、ピアニスト人生が終わってしまいます。

 

よくホロヴィッツは、聴衆を最も恐れていたというほどの、ピアニストでありそうした意味で20世紀に名前の残るピアニストといえましょう。好き嫌いは問わず。

ロシアの音楽評論家で、コンペティションを受けず、成功した例は、ホロヴィッツとアイザック・スターンだけだとの見解を持つ人もいます。

 

もう一つ、ありましたね。水平に指をまっすぐ伸ばし弾いていくということは、コルトーが最初だとのご指摘。

 

もうEMIGRシリーズの録音はご存じだろうと思います。

私はコルトーのショパンのワルツ全集をLPで昔買いました。ホロヴイッツはたぶん、スタインウェイだと思われますが、コルトーはプレイエルのピアノだと思いますが、もうボロボロの録音でありました。

 

弾き飛ばしはするし、ミスタッチはあるし、聴いていて情けなくなりましたが、コルトーの演奏はそれ以前のものとしてのSP吹き込みのほうが、テクニック的には安定しているのでしょう。

 

コルトーは、カザルスと組んでの、カザルス・トリオでの演奏を懐かしく思う人も多いでしょうか。

 

アルフレッド・コルトーの功績は、フランス派のショパン演奏を確立した人であるということです。

 

ある知人が言っていたように、SP録音でのそれ以前の19世紀でのパデレフスキーやパハマンのような解釈ではなく、テンポ・ルバートを多用し、音を転がせていくショパンは、戦後のスタイルとして新しいショパン像を示したということです。

 

それが今日まで続く、ポーランド派のショパンではなく、サンソン・フランソワやルイ・サダにつながるフランス派のショパンなのです。

 

また、コルトーはドイツ音楽としてのワーグナーの演奏をフランスに紹介した人であってドイツ音楽にも傾倒しています。だから、フランス人の中には、ワーグナーを嫌う人もいましたが、そうした進取の気性のひとでもあります。

 

Ikuyo Nkamichi さんに関しては私はもう見解を申し上げたくありません。

結局、二回もベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を録音したバックハウスのような偉人のような人が多くいた昔のピアニストのように綺羅星のように素晴らしい感動を与えてくれた人と比較することがもう間違っています。

 

鍵盤の獅子王と呼ばれた人は、毎日練習を欠かさない立派な人でしたが、ファン・クラブを作るような人ではありません。

 

要するに、今の演奏家は中庸の中堅のピアニストばかりになったのでその中では、優れているとの特選なのでしょう。

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