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2018年8月27日 (月)

日本のクラシック音楽の欺瞞~ツィメルマン、フジコ・ヘミングなど~

ツィメルマン、表記では、クリスティアン・ツィマーマンであるが、どちらにしろ変わらない。

 昔の、イケメンピアニストで、かつて、黒い髭をはやしだした頃、何かが彼の中で変わったのではないかと推測したが、演奏上何も変わらなかった。今は、頭も髭も真っ白になっていた。

 NHKでは、奇跡のピアニストなのだそうだ。何が、奇跡なのか、少し聴いてみた。モーツァルトのピアノ作品も、ベートーヴェンの悲愴も、少し聴いたが、何の感興も湧かないばかりか、気品といったものも感じられない。少しの感情表現はあっても、これが、円熟だなどといったら、過去の巨匠に怒られる。言ってみれば乱熟であって、厳しく求むる気持ちがない。

 こんな程度のピアニストを、奇跡だなどと持ち上げる方がおかしいではないか。

フジコ・ヘミングのように、弾けないのに弾けると言う、ウソで塗り固めた、ほど酷くはないが、

一応は弾ける。

 円熟というのなら、あんな程度で良ければ、世の中甘くなったものである。

 

こういった、批判的文章をブログなり、ホーム・ページに載せると必ず、報復が来るので、NHKの良くない演奏は、ブログに載せない。この文章も載せることはなく、オクラ入りである。が,敢えて載せる。

 

 ちなみに、この番組の新聞の表題には、必聴・世界屈指のピアニストの研ぎ澄まされた音。と書いてある。こうして、善男善女が、騙されてしまう。NHKの作る嘘である。

 

奇跡というのは、かつてのハイフェッツやホロヴィッツのことを言うのであって、このような演奏が奇跡ならば、奇跡など簡単に起こるのと同じで、他にピアニストがいないのは分かるが、こういう持ち上げ方をするのは、なにか、NHK自身にあると見られて仕方がないだろう。

 

 とにかく、日本のクラシック音楽の演奏家に対する、海外での活躍ぶりを評する場合、一度も名前を聞いたこともないオーケストラの首席指揮者になって、日本のテレビが、海外のオーケストラの指揮者になったというと、物凄い扱い方をするのである。

 佐渡裕にしろ、何年か前フランスのオーケストラの指揮者になったというと、これも聞いたことないオーケストラで、彼自身、遊んでいるのがよく分かる。その土地の有名人になり、聴いたことのないオーケストラを振っている。ワインを飲み、自分のフランスの家で、くつろいでいるのである。それを音楽の達人、遊びの達人と持ち上げている。そんな、その土地の有名人と遊ぶ暇があったら、スコアを読めと思った。

 BBCウェールズ交響楽団の首席指揮者になって、NHKご自慢の昔のサラブレッドがいる。第一この交響楽団の存在さえも知らない上に、この交響楽団要するに外国であれば、何のオーケストラであっても、首席指揮者になると、もう成功したと報じる、NHKも節操がないのか、何も分からないのか不思議である。

 私はこの人の指揮で、N響で、マーラーの5番を聴いている。後から考えてみるとこの人の指揮は、ただ、流れているだけで何もないことが分かる。私の先輩は、ホールで寝ていた。

普通、イギリスなら、ロンドン交響楽団か、ロンドン・フィルでも振らせて貰えれば、すごいことだが、BBCウェールズ交響楽団とは、なにものだ。

帰ってくれば、イギリスの一流オーケストラの首席指揮者を務めたと紹介するのだから、おかしいことこの上ない。外国のオケなら、さぞ凄いと思う、これも嘘の一つだろう。

地方オケなら、無数にあるのがヨーロッパである。

NHKの放送のおかげで、フジコ・ヘミングもよく売れる。レコード会社は、彼女の演奏を次々に録音発売する。クラシックのCDが、売れないなか、世の善男善女が、NHKの言うことなら本当だろうと思って買うのである。CD店には、彼女のコーナーが必ずある。レコード会社にとっても、ドル箱だろう。みな、NHKのドキュメンタリーのおかげである。

私もこのドキュメンタリーは見た。どう凄いのか、聴いてみたら、おばあさんが、余技で弾いているような、リストの鐘だった。こんな雑な演奏を聴いて、CDを買うのはどういうつもりなのであろう。そのCDは、よくできているらしい。もう十年位前の話であって、私の仲間の中では、一言も話題になりもしなかった。だから、クラシック音楽の世界というものは、日本では虚業のひとつである。奇跡のピアニストと放送しただけで、沢山の善男善女による、ファンができるのである。朝日新聞が書評に取り上げると、本が売れるのと同じである。

館野泉にしてもそうである。倒れてから、右手が動かなくなったので、左手のピアニストと放送で取り上げた。この人自身の弾く、両手の演奏は悪くはないが、この放送によることで、その左手のCDもうれるのである。普通だったら、フライシャーと同じく、ピアニスト人生は、普通は終わりである。でも、ドキュメンタリーで取り上げることで、全く彼のことを知らなかった人までが、買うのである。障害のある人を責めてはいけないだろうが、レコード会社は、ほくほく顔である。何で、クラシック音楽界そういう数奇な人生の講釈の必要な世界になっていくのか。音楽が分からないから、数奇な運命の演奏家が、注目されるだけである。それも、世の善男善女ばかりなのである。ある意味で、かわいそうである。

ロシアの音楽院出身の日本の女性指揮者は、同性愛者なのだという。別にそんなことは、もんだいではない。チャイコフスキーも同性愛者だった。ところが、演奏が、腰が据わっていなくて、聴いていて難があるそうだ。私生活はどうでもいいことで、いい仕事さえしてくれれば、いいのである。アメリカの政治家ではないのだから、仕事が良ければ私生活もどうでも良いのである。

米良美一も同性愛者であるが、もうバッハのカンタータには出して貰えなくなったが、日本で金を儲けるなら、ヨイトマケの唄なり、歌謡曲を歌っていた方が収入になる。バッハのカンタータで歌っていたときは、彼自身、辞書を引き、発音等完璧にしてから、歌うと言った、真面目な一面もあったのに。

とにかく、クラシック界は、日本では魑魅魍魎の世界である。

まだまだある。現代ヴァイオリンを習っていた者は、ピアニストと同様に生活できないので、今はやりの、バロック・ヴァイオリンで生活するために転向するのだそうだ。別にバロック音楽に興味があるわけでもなく、芸術家としての信念もなく、どんどん転向しているらしい。

また、ある先輩も言っていたが、私も同感であるが、海外のコンクールで入賞すると、必ず徹子の部屋にでて、NHKでは、放送してくれ、もう先生扱いで、もう一生コンサートで、CDで生活できる。その弟子と言っても、流派があるわけでもなく、日本で活動しているうちに、一応弾けるだけで、何もないのに先生となる。日本の流派としては、面白くないが、東京芸大の解釈そのものが、日本の流派だとはいえるだろう。私は、大嫌いだが。その卒業生の作るN響自身が、その流派を表しているではないか。だから、進歩がないのである。

今思うと、シャルル・デュトワは、彼自身、東洋の人間にクラシック音楽を啓蒙しようと思って、N響を振りに来たのだと私は思う。東洋人のN響にクラシック音楽を教えてあげようと思って来て、やっぱりダメだったから、去ったのだと思う。結局、ラヴェルを東京交響楽団のようなどす黒い音を出すだけで、フランス的な味など、N響に期待するのは無理なのに、どういうわけか、会員は増えた。そのN響のラヴェル・プログラムで、デュトワが振るとまるで違うと本気で思っている人がいるのである。

いまでは、東京芸大ではなく、海外のコンクールで入賞するのは、ヤマハ音楽教室の生徒なのである。

あるヤマハの社員である女性と話したことがある。音大の大学院でソプラノとして声楽を学んだという。じゃあ、声楽を教えられるじゃないですか。と言ったら、とても教えられない。今の企画等の仕事のほうが給料がいいからだと言った。声楽を学んだにもかかわらず、その音楽についての愛着はないのである。また、大学院で学んでも、教えることもできないし、それより収入の多い楽な仕事を選んでいるのである。

前に、小田急線に乗っていたときに、ハラシェヴィチのCDを聴いていたら、電車の騒音のほうが大きいので、大音量で聴いていたところ、多分音大生とおぼしき何人かが、それを耳にしてこんなに弾けないとのことを言った。私は、ハラシェヴィチのように弾けることができたら世界最高だが、楽譜通りに弾けるのならピアノ科の学生なら、幻想即興曲くらいは、練習すれば、子どもの頃から練習しているのだから弾けるのかと思いきや、要するに弾くこともできないのである。これには、驚いた。ハラシェヴィチは、3歳から弾いているのではない。10歳くらいからピアノを始めたのだから、あまりテクニックのある人ではない。

レコード芸術でも、そうで、一度レコード・アカデミー賞を何かの部門で取ると、必ずその演奏家の録音は、特選になるのである。最後の牙城が、ポリーニである。やっと、テクニックが衰えたことを自覚した彼が、迷いから抜け出すまで、自信のない演奏や録音ばかりだったころ、評論家の一部は、迷いだ。とはっきり指摘したにもかかわらず、円熟だとレコード会社と一緒に騙していた。

音楽の友も、噂では、ウィーン国立歌劇場での小澤征爾の評価は、最低なのに、音楽の友では、提灯記事を書いていたようで、もう嘘もかけないと言ったところで、小澤が病気になって、彼自身のためにもなった。もう、どうせ、オペラなど、日本人の小澤が、言語などわからないのだから、ウィーンを始めて振ったヤナーチェクだって、チェコ語が、小澤に分かるわけがない。楽譜通りには、演奏できても現地紙が言うように、彼は何でも提供できる。が、それだけだ。との評もある程度分かる。もうウィーン国立歌劇場などやめて、交響曲でも、録音して最後の花道を造ってくれ。ベートーヴェンでもマーラーでも、ブルックナーでも良いではないか。ウィーン国立歌劇場なんか振ってないで、もう止めて、好きなシンフォニー指揮者として、録音してくれ。日本人が、ニュー・イヤー・コンサートも振れたし、ウィーン国立歌劇場も振ったし、これで、ヨーロッパ、アメリカに日本人が立てたのだからもういいではないか。

こんな世界が、日本のクラシックの現状であり、恥部なのであるのは、本当に情けない。

聴いてみたいなあという、指揮者やピアニストが、世界に日本にいますか。

いたら教えて欲しいものだ。

誹謗・中傷を発表しようとして、こんなことを書いているわけではない。余りにも、クラシック音楽に群がるハイエナのような業界ではなく、本当に音楽を自分の物として、過去に例のないような優れた演奏家が出て来て欲しいからである。ミス・タッチが何回あろうと関係ない、その作品を自分らしく物真似でない個性的な音楽を演奏してくれといっているだけである。

日本人演奏家だけではなく、ツィメルマンのような演奏家で成り立ってしまうならば、もうピアノの世界も終わりである。

長々書いてもしょうがないが、今クラシック音楽を真面目に聞き、演奏家を送り出そうとしているのは、中国と韓国と日本くらいなもので当のドイツ人などまともに聴いていない。演奏家でもそうなのだから、もうクラシックもヨーロッパでも聴かれていない。

こんな現状で、こうした提言をしたところで、理解されないし、多分分からないだろう。

もう、クラシックなど聴かずに、Jpopでも聴いていた方が、騙されるよりは、いいだろう。

クラシック音楽は、高尚なものでもなく、高級感を醸し出す道具に墜ちているのである。

こんな演奏家を聴くのなら、昔の偉大な演奏家を聴いた方が、感動に満ちあふれた、品位のある演奏を聴くことができるのは、確かだ。20年前もう、巨匠と言われる人は、今の時代はいないね。時代がそういう時期だからね。と言って21世紀となり、本当に、誰もいなくなってしまった。日本人演奏家でも、評価に値する人もいる。要は、何も考えず、ただ弾くだけに専念する音楽性のかけらもない人たちが演奏し、演奏家の奢りは、聴いていさえすればすぐに分かる。

将来のクラシック音楽界など、想像したくもない。

衰退していく音楽を高級な音楽だと思っているのは、日本人くらいなものだ。

悲しいのはこの現状を知っている人やクラシック音楽の大好きだった私。

書くだに、悲しい気持ちになるから、綴るのを止めよう。


 日本人のクラシック音楽の聴衆の中には、想定外の人がいる。

 前に、故スヴャトスラフ・リヒテルの来日時に、モーツァルトの協奏曲を演奏した。楽譜の譜めくりもいて、ピアノを楽譜通りに演奏しているだけである。それを聴いている日本人の聴衆で、素晴らしい演奏だったと言うのである。それは、本気でそう思っているようである。

 何度も書いたが、デュトワの指揮によるN響による、ラヴェル・プログラムを聴いた聴衆が、デュトワが振るとやはり違うというのである。中には、モントリオール響と同じだと言う人もいたのである。

 私は、両方ともテレビではあるが、聴いていて後になってその話を聞いて、信じられない。と思った。

 なぜ、そういう評価が下せるのか。また、そう思う聴衆がいるのか、不思議でしょうがないのである。

 確かに、楽譜通りに演奏されているのだろうが、なぜそこで、他にない素晴らしい演奏だと思えるのだろう。そこが、分からない。クラシック音楽を聴いたことのない人なら、初めてコンサートを聴いて、どちらにしろ名は通っている演奏家であるから、納得する人はいるだろう。

 でも、クラシック音楽の愛好家と言えるだろうという人が、絶賛するのはなぜか未だにわからないのである。こうしたことばかり、公にもし書いて発表したとしたら、レコード会社から、抹殺されるだろう。もし音楽評論家なら。じゃあ、許光俊を見よ。あれだけ、日本のクラシック界のことを、裏まで知っている人の悪口雑言の本が、なぜこれだけ売れるのか。それが、ほんとうのことだからである。いくら、日本人がホンネとタテマエが、違うということは分かっていても、嘘を書いてまで、タテマエで通すか。NHKと違う意見はいえず、そこまでして、タテマエを突き通すか。

 実際に、許光俊の本が売れるというのは、彼が日本のクラシック界のホンネをかいているからではないか。その内容は従来の日本では過激だという人もいるが、それが、ほんとうのことだから売れるのである。オベンチャラで、通すことは簡単だ。

 私は、昔から、小さいときからクラシック音楽を聴いてきた、私の仲間でも、私以上に音楽の分かる先輩は星の数ほどいる。その演奏が分かっていて、こういう演奏については、私は嫌いだまたは、好きだと言えるから、説得力があるのであって、ホンネを隠して嘘をつく人など誰もいなかった。実際に評論家になった人もいる。現在レコード芸術に書いている人もいる。

 過去にはそういう、レコード会社の接待が、好きで、寿司屋に連れて行けば、そのレコード会社の演奏家を褒めるような、節操のない人など、過去にも多くそういう老評論家がいたのは事実のようだ。

 ならば、本当のことが書けない、日本のクラシック界というのは、何度も繰り返すが、CDが売れればいいだけの虚業ではないか。

 逆に言って、アメリカやイギリスのロックやポップスの評論をする何十年も洋楽を聴いている音楽評論家のほうが、もっと自由に発言しているのではないか。

 私自身、クラシック音楽の評論とは、その演奏の個人的な好き、嫌いではなく、その演奏を、的確に、他の読者に分かるように、公平に真実を述べることだと思っている。余りにも、偏った意見、例えば故朝比奈隆氏の演奏が、一番素晴らしいだの、N響の良い演奏ではないのに嘘をついてまで素晴らしい演奏だと言うことは、嘘になる。分かっていながら、嘘をついてまで日本のクラシック界を守ろうとすることは、逆にクラシック音楽界の質を益々、落としていく行為に他ならない。

 大植英二氏が、バイロイト音楽祭で振ったときも、NHKのゲストは、あまり現地での批評は良くなかったというのであるから、多分そこまで言うのなら本当のことを言ってくれたと思う。事実でなく、良い演奏も水準に達していない演奏も何も主張のない演奏もすべて、一緒にしてしまうのは、嘘で塗り固める行為である。でも、そのゲストは、嘘ではなく、本当の現地での事実を真実を言ってくれたのである。彼を貶めるために言っているのではない。本当の事実を知らなければ、視聴者にも嘘をつく行為だし、批評によって、大植氏も考えることにもなり、よりよい音楽作りを目指すようになるではないか。

 日本では、クラシック音楽に関する限り、ある程度虚業で、成り立っていることは分かる。

 もし、これが、JPOPJROCKや洋楽で嘘をついた評論をしたら、若者の反発は必至である。

 この日本のクラシック界の不明確さは、本当は触れないことのほうが、良いのかもしれない。フジコ・ヘミングを聴いている人にとっては、それが一番いいのだし、かえって本当のことは知らない方が幸せかもしれない。初めて聴くクラシック音楽のコンサートで、自分にとって良かったのなら、敢えて批評など必要ないのかもしれない。

 でも、日本のクラシックの音楽界にとって、音楽評論家という人たちは、きっと演奏については分かっているのである。良い演奏家には、多くのファンが集まり、良い演奏会もあり、そういうものこそ、マス・メディアは、こぞって評論記事も載せるし、そこに集まる、クラシック音楽の愛好家が、本当にいるのは、事実なのである。だからこそ、まだ日本のクラシック音楽の聴衆は、分かりきっていることは言わないのかもしれない。良いと思われるコンサートは、満員だからである。それこそが、日本のクラシック界の救いである。

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2018年7月 2日 (月)

往年の指揮者オットー・クレンペラーの計算高さ~クレンペラーは尊敬に値する指揮者なのか~

一般論として考えてみたく思いました。

クレンペラーは、1972年に亡くなりましたが、結局来日せず、本当のコンサートは、映像としての媒体や、LPCDでしか聴くことはできませんでした。

彼が、録音するのは、娘の経済的なものによるものと言っており、あれだけ愛してやまなかった、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団についてもギャラの低さによって振らなかったということが現実でした。

聴いている方は、お判りでしょうが、遅いテンポを取りそのために、重厚感を出すことを無理なくオーケストラに要求します。そのためにドイツ的な構築感そして遅いテンポによる重厚感を何より大事にした巨匠として多くの昔の愛好家や評論家には、評価されました。

さとちゃんは、クレンペラーという指揮者を別格である名人指揮者であることは認めますが、最近、EMI録音を聴くにつれ計算して、計算高く音楽を造っていたのではないかと思うようになりました。

もしクレンペラーが、高潔な指揮者なら、EMIのブラームスの交響曲第一番の第一楽章のドイツ的な決めるべき重厚感が出せなかったら、きっとクレンペラーは、許諾しないか取り直しをするはずでしょう。

また、ワーグナーの歌劇ローエングリン第三幕への前奏曲でもトランペットが、ミスをしてもお構いなく録音しています。聴けばそのミスはある意味で致命的ともいえます。

当然のことながらスタジオ録音なのだから、クレンペラーが気付かないはずはありません。

でも許諾して、LPCDになっています。

彼は、脳腫瘍の手術の後、そううつ病になり、その時の気分により演奏も変わったともいわれます。

モーツァルトの交響曲第25番ト短調の1956EMI録音は、よくその勢いからよく名盤とされています。

ではすべてのモーツァルトの選集の交響曲は、早いテンポ設定なのかというとそういうわけでもありません。

多くの名録音が、クレンペラーにはありますが、彼の信念での録音ではなく、その当時のドイツ的重厚感が、聴衆や評論家に、今の時代の最良のドイツ的指揮者と評された理由ではないのではと思うようになりました。

映像も最近は販売され、様々なテスタメントレーベルでの録音もありますが、もう同名異演をこれ以上聴いてもあまり意味がないような気もします。

素晴らしい音楽造りである指揮者ではあることはやぶさかではないですが、何かここのところそう思うことがあります。

指揮者としての仕事が、素晴らしければよいので、それだけでよいのかもしれませんが。

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2018年5月26日 (土)

バロック音楽やルネサンス音楽や中世の音楽と一般のクラオタの世界

何度も言っていますが、これから面白い音楽としてのバロック音楽をぜひとも皆さんに聴いてもらいたいのです。

西洋音楽史において、古典派のモーツァルトやハイドンの交響曲を聴くのも良いでしょう。でも、その前の時代の西洋音楽史の音楽の時代は、聴くに値しない音楽ではなく、むしろこれが、西洋音楽史の一つの時代でもあるのです。

 

何度も先輩にも言いましたが、バロック音楽やルネサンス音楽の時代そして中世の時代の楽譜として残っているものは、最初は最終的にはグレゴリオ聖歌です。その時代から西洋音楽史が始まっているので、高々20世紀の初頭の今から150年ほどのハイドンやモーツァルトから後期ロマン派までですべてを語ろうとするから無理があるのです。

そのあとには、20世紀の音楽ととして1920年代から1930年代の新ウィーン学派や戦後の1950年代の前衛としての現代音楽があります。

 

音大生が、バッハの対位法がわからないとう言う人が九割にも及ぶことは、驚異的なことです。きっと、クラシックオタクと言われる方々は、ハイドンから、西洋音楽史が始まっていると思い込んでるのかもしれません。

 

 

フーガ的なバッハの理解にはまた演奏者は、楽譜から、様々な声部を引き出し、弾いていけばよい演奏と言えるのですが、そのバッハの二声のインヴェンションと三声のシンフォニアでさえ、音大生には、声部を引き分けることは実際には困難なのです。

 

これでは、対位法などわからずベートーヴェンのピアノ・ソナタを弾くには困難と言える、29番のハンマー・クラヴィーアも味わい深く弾くことはできません。

だから、音楽性を持ったピアノ音楽が、弾けないのです。すべて、西洋音楽史は、温故知新の音楽です。

 

古い音楽を捨て去り、新しい音楽の時代を造るにしても、新しい音楽は、今までの西洋音楽史をある程度踏襲したものです。

 

バロック音楽の時代の前の時代のルネサンス音楽の時代には、皆川達夫氏の言うところの多声部音楽、磯山雅氏言うところによる多旋律音楽が、幅を利かせていて、ブルゴーニュ学派としてフランスの北のブルゴーニュ公国の作曲家が、活躍していました。

 

でもルネサンス音楽は、多くの声部を持ちながらも、歌詞の強い表現力を持ったものではありませんでした。

 

そこでイタリアのフィレンツェのカメラータ(音楽でいう仲間たち)の作曲家たちが、1600年の前後から、作曲家のカッチーニなどの今でいうイタリアの古典歌曲、麗しのアマリッリなどの歌曲を造りだし歌詞をルネサンス音楽からバロック音楽への新しい潮流の作曲を始め、通奏低音を含めた新しい音楽のバロック音楽を作り出したのです。

 

その中でも、クラウディオ・モンテヴェルディが、ルネサンスの音楽であるマドリガーレと言う多声部音楽である合唱曲である作品と通奏低音と言うものを定着し、新しい音楽を造ろうとしていたのが、バロック音楽の時代です。

 

どちらにしろ、このバッハやヘンデルで終わる通奏低音を含む音楽は、はっきりとバロック音楽の時代と言え、古典派のハイドンやモーツァルトとは一線を画します。

 

そのあとには古典派の前に、前古典派という大バッハの息子たちの時代があり、ハイドンへとつながっていくのです。

 

もちろん、大バッハも19世紀にはメンデルスゾーンのマタイ受難曲の演奏により復活したと言われますが、彼の大バッハの出版楽譜による、平均律クラヴィーア曲集第一巻や第二巻やフランス風序曲等々多くの大バッハ作品は、忘れられてはおらず、常に19世紀にも、ピアノの練習用としての地位は築いていました。

 

ピアノ作品に限らず、モーツァルトの交響曲でも一番分かりやすい事例としてもちあげられるのは、41番の「ジュピター」の第四楽章です。ほかにもモーツァルトは多くの声部による対位法での音楽は捨て去っていないのです。聴きどころには、バッハの究極の対位法部分である、多くの声部のオーケストラでの掛け合い部分としての聴き所があります。

 

モーツァルトは、対位法を完全に捨てきったわけではなく、旋律重視の第一ヴァイオリンには、主旋律を弾かせる、ホモ・フォニーでありながら、その前の時代のフーガ的な部分での聴き所を造っています。

 

また、ベートーヴェンの交響曲第六番、「田園」でも鳥の鳴き声を模す部分があるのはご存知でしょう。これは、ルネサンス以降のバロック音楽でも、鳥の声を模倣する、例えば、ルネサンス音楽であるフランスの作曲家のジャヌカン作曲のその当時のシャンソンのマドリガルの「鳥の歌」を聴くと、これは、西洋音楽史の常々の伝統である自然と音楽との結びつきだとわかります。

ジャヌカン・アンサンブルで、昔クルト・ヴィスでもカウンター・テノールとして一員での録音があります。

 

ですから、古典派のハイドンやモーツァルト以前の前古典派時代バロック音楽の通奏低音の時代を経ての音楽という西洋音楽史の時代はもっと先に遡れるのであって、いっぺんにバッハやヘンデルになってしまうものではないことを知る必要があるのです。

 

今回は、もっと、バロック音楽の新しい演奏家の話でもしようかと思っていましたが、またの機会にいたしましょう。

 

中世・ルネサンス音楽とバロック音楽に関して、入門書には講談社現代新書による、皆川達夫氏による本が、平易であり、読まれることをお勧めします。

 

マルタンやガッティやエルヴェ・ニケを書こうとも思いましたが、筆の都合上、ハイドン以前に一度触れていくべきだとの見解に達し、書きました。

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2018年5月14日 (月)

ブロムシュテット特集 2018年5月13日放送Eテレ~その演奏について~

久しぶりに、ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とバンベルク交響楽団が聴けるとあって、Eテレを見てみました。

ブラームスのブロムシュテットによるドイツ・レクイエム。

聴いてみて、ソプラノ歌手やバリトン歌手は割と歌唱もよいとの感じを受けました。

ただ、ブロムシュテットの指揮によるドイツ・レクイエム。悪くはないもののそれほど、感動を受けるものでもないような気がします。何か流れるままに演奏され悪い演奏ではないかもしれませんが、何かを訴えるような音楽とは思えませんでした。

聴いていて、もっと心に訴えかけるような演奏を期待していたのですが、気をそがれたような気がしました。

普段は、FMでもテレビでの演奏や、行ったコンサートで、あまり感動を受けなかったときは、書かないことにしているのですが、そのあとのバンベルク交響楽団とのブロムシュテットのベートーヴェンの交響曲第5番「運命」についての意見を述べさせてください。

なぜ、ブロムシュテットは、名門バンベルク交響楽団に古楽奏法を強要するのでしょうか。

前から、大きなダイナミック・レンジを持つ現代の楽器である現代オーケストラに古楽奏法を強要するのでしょうか。

何度も言っているように現代オーケストラは、現代のヴァイオリン、19世紀以来の大きな音量が出る特徴を生かして、例として指揮者のカラヤンでも驚異的なフォルティシモを持っていたし、ピアニッシモも出せるそのダイナミック・レンジの広さにおいて無限の可能性を持つものです。

18世紀のバロック音楽やモーツァルトの時代までの古楽器のコピーやオリジナルのその当時のバロック・ヴァイオリン等の古楽器によるバロック・オーケストラとは根本的に違います。

かつての20世紀の時代には、古楽のブリュッヘンは、現代オーケストラも古楽奏法をすべきだとの主張持っていました。またアーノンクールも数々のアーティキュレーションを駆使し、それが的を得た演奏か否かは別としてその影響を受けた一般の指揮者も多く指揮者のコウトもそうでした。

レオンハルトについては、バロック・オーケストラには、そうした主張をしていましたが、現代オーケストラに古楽奏法を強要することはなかったような気がします。

どちらにしろこの三人は、もう亡くなってしまいました。何も現代オーケストラに音量を抑えて、演奏させる必要がどこにありましょう。

現代ヴァイオリンなのだから、ほかの楽器も20世紀の19世紀の大きなホールでの演奏会での演奏に耐えられるような、ストラディヴァリウスであっても、17世紀に造られたバロック・ヴァイオリンに改造して大きな音量を出す改造をしているので、大きな音量が出るのです。

それをバロック・オーケストラのような、こじんまりした音量にしてしまうのは、もったいないと考えるのです。

それならば、バロック・オーケストラで、古楽奏法を行えばよいのです。いくらでも、古楽器を使ったバロック・オーケストラはあるのです。そうしたバロック・オーケストラ常設のものも多くありますから、普通の現代オーケストラを指揮していた指揮者でもいくらでも振ることはできるし、古楽奏法は、バロック・オーケストラなら当たり前のことなので、その方が良いとおもいませんか。

せっかく大きな音量を出せる現代オーケストラなら、普通の20世紀のようにビブラートを多く使って美しい大きな響きを造るべきではないでしょうか。

指揮者が、そんなに古楽奏法にこだわるのなら、常設のバロック・オーケストラで演奏すれば問題はありません。ピッチの問題はありますが、その方が自然ではないでしょうか。

オイゲン・ヨッフムの指揮による、バンベルク交響楽団は本当に素晴らしいしぶい弦を持った良い現代オーケストラでした。その音が聴きたかったのに、ブロムシュテットによる演奏は古楽奏法そのものでした。

現代オーケストラに古楽奏法を強要することは、その現代オーケストラの20世紀の伝統的な音楽演奏としていた指揮者の勝手な、その当時の音を再現するために、奏法をまねるだけのものであって悪しき演奏法だと思います。

安易に現代オーケストラに古楽奏法を強要するのではなく、それが新しい潮流だと言いたいのでしょうが、当時の楽器の古楽器を使いその当時の美意識、良い趣味による、当時の音楽を再現することが、オリジナル主義と言われる、ブリュッヘン、アーノンクール、レオンハルトなど多くの古楽器奏者による一つの理想でした。

皆さんは、現代オーケストラに古楽奏法をさせて、古楽器のバロック・オーケストラのような響きやアーティキュレーションを様々に変えることが、新しい潮流だと言われる方もありましょうが、このことは誤りだと思います。

現代オーケストラとバロック・オーケストラとは根本的に違う楽器なのだから、指揮者のサイモン・ラトルにも、18世紀のラモーを演奏するなら、ベルリン・フィルではなく、バロック・オーケストラで実験してもらいたいとも思います。

現代オーケストラとバロック・オーケストラとの棲み分けはするべきだと思います。

NHKに準拠する演目を添えておきます。

20185月13日(日)放送
ブロムシュテット特集★
<ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団「ドイツ・レクイエム」演奏会>


2017年NHK音楽祭の公演。Eテレ初登場です。
名演と評判を呼んだ、巨匠渾身の「ドイツ・レクイエム」をどうぞ。

■ドイツ・レクイエム 作品45(ブラームス)

ソプラノ : ハンナ・モリソン
バリトン : ミヒャエル・ナジ
合 唱 : ウィーン楽友協会合唱団
管弦楽 :ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
指 揮 : ヘルベルト・ブロムシュテット
(2017年11月13日 NHKホールで収録)


<バンベルク交響楽団演奏会から>

■交響曲第5番ハ短調 作品67(ベートーベン)

管弦楽 : バンベルク交響楽団
指   揮 : ヘルベルト・ブロムシュテット
(2016年11月1日 愛知県芸術劇場コンサートホールで収録)

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2018年5月13日 (日)

モーツァルトの交響曲第31番「パリ」の聴き比べ~ベームとベルリン・フィル&クレンペラーとフィルハーモニア管弦楽団~

今日は、時間があったので久しぶりに、LPを取り出し、指揮者カール・ベームとベルリン・フィルとのモーツァルトの交響曲全集の中から、1968年の録音のそのドイツ・グラムフォン盤を聴いてみました。三楽章の短い作品なので、20分位の間聴いてみました。昔、買ったLPです。

ベームの透明な弦の響き、すっきりした構成美とドイツ的な構築感があり、聴いていても疲れない優れた録音です。また、第二楽章もすっきりとした中にも、楽譜の深い読み込みと作品に対するベームの巧みさと共に彼のモーツァルトの交響曲に対する姿勢が、如実にわかります。

大体においてさとちゃんが思うに、モーツァルトの交響曲を演奏する場合は、指揮者の第二楽章を聴けばある程度わかると思います。この第二楽章の緩徐楽章を上手く演奏できなければ、モーツァルトの交響曲を振る資格はないと言えると思います。

 

そういう意味では、この録音は、古い録音と言っても価値のある録音です。

ベームのこの録音を聴いて、手元にあるオットー・クレンペラーのEMI録音のスタジオ録音でも「パリ」を聴いてみようと思い昔買ったCDでのモーツァルトの交響曲集の4枚組中でのクレンペラー指揮のフィルハーモニア管弦楽団の1963年録音を聴いてみたくなり聴いてみました。

今、テスタメントのレーベルでおびただしい数のクレンペラーのライヴ録音などが発売されています。さとちゃんの世代よりももう少し前には、クレンペラーの人気は、非常に高く、結局来日はしなかったのですが、絶大な支持を集めていました。

不屈の精神で何度も事故や病気を乗り越えながら、感動的な音楽を造っていました。

昔はバロック音楽ばかり聴いていましたので、クレンペラーは聴いてみたことはなかったのですが、

ハイドンの交響曲の軍隊をアンタル・ドラティ指揮のフィルハーモニア・フンガリカの爽やかな颯爽とした解釈を聴いていましたが、ある方が、その軍隊を、クレンペラー指揮のフィルハーモニア管弦楽団で聴かせてくれました。非常に風格のあるハイドンの第100番の交響曲「軍隊」を聴き驚いたものです。

クレンペラーの重厚な音作りというもの、その当時のドイツのロマン的な音作りともいえるので、若い方は敬遠されるかもしれません。でも、基本的にはイン・テンポで、フルトヴェングラーのような恣意的なところはなく、一定のテンポは崩さないので、若い方には音作りには不満があっても、一時代を築いた指揮者でした。

なにしろ1920年代1930年代にベルクのヴォツエックなどのオペラやマック・ザ・ナイフで知られる三文オペラやシェーンベルクなどの現代音楽を指揮してきた人です。モーツァルトやハイドンなどお茶の子さいさいだったのかもしれません。

前置きがながくなってしまいました。モーツァルトの交響曲「パリ」のクレンペラー盤は、もう最初から重厚な響きで、ベーム盤とは違います。ベームのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団はすっきりした音作りですが、ここでもう、クレンペラーとの違いは判ります。

ベーム同様、楽譜の読みは深く、ちょっとした、第一楽章のピチカート部分を音楽に埋没させずに少し際立たせたり、非常に巧みな演奏です。またベームと違って第一ヴァイオリンを左に、第二ヴァイオリンを右に配置しているので、その19世紀のオーケストラの配置に従っているために対比ができ大変面白いとも言えます。昔よく聴いていた盤ですが、クレンペラーの音作りは、感動的な響きとも言えるかもしれません。ベームのさっぱりした透明な音造りのモーツァルトとも違い、重厚でありながら、第二楽章の恣意的ではないものの、非常に深い音楽造りをしているこの第二楽章も優れたものだとおもいます。

今ならもう古楽器によるホグウッドやピノック指揮の演奏もあり、新しいモーツァルト像を示してくれる指揮者が多いですが、昔の録音を聴いてみると、ベームにしろクレンペラーにしろ、名人指揮者だったなあと感慨深いものがありました。

若い方には古い録音では、ありますが、こうした録音も一聴に値すると思います。

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2018年4月27日 (金)

ドヴォルザークのスラヴ舞曲の聴き比べ~ターリヒ、アンチェル、ノイマン、クーベリック、マーカルとチェコ・フィル~

ここのところ、今の指揮者マーカルがチェコ・フィルハーモニー管弦楽団を振った録音が、昔のチェコ・フィルのオーケストラのように、精妙で透明な響きを魅せていると評判です。

チェコ・フィルの昔の響きに戻ったとのことです。

 

ターリヒ指揮チェコ・フィルのスラヴ舞曲は、これも深いもので音楽的には、表情付けもありますが、なかなかに味わいのある演奏です。オーケストラのチェコ・フィルも昔の音で精妙です。1950年の録音です。

 

アンチェル指揮のチェコ・フィルも伝統的にターリヒの影響もあるのでしょうか、精妙でしかも音楽的に深い演奏です。1955年録音です。

 

さてそのあとの、ヴァーツラフ・ノイマン指揮のチェコ・フィルのスラヴ舞曲はどうでしょうか。

1982年にノイマン・チェコ・フィルの演奏会を聴きに行った覚えがありました。

ドヴォルザークの交響曲第8番イギリスだったような気がします。チェコ・フィルの弦は、滑らかな、いぶし銀の一糸乱れぬ演奏で弦についての強力なしなやかな演奏を覚えています。精妙、透明ではなく、音色的には、暖かい歌う性質をもった非常にテクニックを持ったものです。

スラヴ舞曲の第一集を持っていますが、音楽的には全者の二人よりも深くはないかもしれませんが 、非常に強力なオーケストラでした。ここで、チェコ・フィルの音は変わったのです。

まだ、ソ連と欧米諸国との対立であったその当時、東の共産圏にあった東欧のチェコ・フィルとノイマンとのコンビは一つの良き時期だったと思います。

 

冷戦が終わり、1989年にベルリンの壁が崩され、自由化したソ連や東欧諸国チェコ・スロヴァキアは、独立して、チェコ・フィルもチェコ・フィルとスロヴァキア・フィルとに別れてしまい、ノイマンの時代はおわりました。

 

そうした、そのずっと後、チェコ・フィルをターリヒやアンチェルの時代の音に変えたのが、指揮者のマーカルでした。

 

チェコが、ソ連がなくなり、共産圏から離脱してから、指揮者の亡命していたラファエル・クーベリックが、直後にチェコ・フィルを振りスメタナの連作交響詩、モルダウを含む、わが祖国を演奏したことを思い出す方もいるかもしれません。

 

このクーベリック指揮によるバイエルン放送交響楽団によるスラヴ舞曲も良い演奏です。第一集第二集とありますが、弦が透明な響きのバイエルン放送交響楽団も深い演奏ですが、あまり表情付けはなく、精妙な演奏であり、美しい現代的な演奏と言えるでしょう。

 

クーベリックの指揮バイエルン放送交響楽団によるモーツァルトの6大交響曲のスタジオ録音も非常にアンサンブルのバランスの取れた非常に精妙な美しい演奏でした。

 

なんとなく、スラヴ舞曲で、様々な録音を聴いてみた次第です。

 

皆さんはどう思われますか。

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2018年3月23日 (金)

クラシック音楽とバロック音楽~なぜ古楽はこれほど人気がないのか~

クラシック音楽のコアな趣味の人は、同じ作品を様々な演奏家で聴いて、その違いを楽しむわけですが、どのような解釈を魅せるかを指揮者や演奏家で様々な演奏を聴くのが狙いです。

そのためには、同じ作品であり同じ楽譜でなければいけませんし、新しい楽譜の校訂があればその作品をその新しい楽譜で演奏し録音するのが意義のある行為でもあります。

古くてもいいところでバッハ以降の音楽を聴くことが多いようです。

このように作品自体の楽譜をもとに、多くの演奏家の演奏があり楽譜を逸脱してはなりません。

ですから、すべて同じ作品なので、その楽しみは比較です。

再現芸術とは同じ楽譜を演奏することを前提にしているわけです。この20世紀の時代21世紀の時代それをもとに多くの100年以上昔の古典となった作品の演奏会や録音がされてきました。

ですから、様々な演奏がありますが、もう新しい録音を聴いた耳でも、同じオーケストラの作品でも楽器はほとんど変わっていませんから、1930年代のワインガルトナーのベートーヴェンの交響曲もモノラルではありますが、カルロス・クライバーのベートーヴェンの交響曲とを比較して楽しむこともできるので例えば録音のある限り、古い録音の方が、モノラルであっても良い演奏だということもできますね。

さとちゃんは、バロック音楽も好きですが、ある時スーパーでバロック音楽の古楽器の録音をBGMにしているのを聴きながら買い物をしてみると何か違和感がありました。

それが、モーツァルトの作品で現代楽器での、BGMなら何かしっくりときて高級感が醸し出されたのです。なぜなのかはわかりませんが。

さとちゃんは、バロック音楽が大好きで、古楽器の演奏が好きですが、どういうわけかその場に浮いてしまう。

なぜなのかがわからないのですが、古楽器だと家やコンサートで聴いている分にはいいですが一般の場だと古楽器の音の違和感とバロック音楽との相性が悪いようです。

でももしベートーヴェンの交響曲の運命だったら、これも違和感があるかもしれません。

ということは、作品によるとも言えるかもしれませんが。

バロック音楽はそうした再現芸術とは、根本的に違います。装飾が施せない演奏は、今の研究では、その時代の演奏ではありえませんし、楽譜通りではなく、その場の演奏者の数によって、さまざまに楽器を使っても構いません。ですから、比較の対象には、楽器の数や装飾、リアリゼーションもその場で決めても良い時代でした。

通奏低音も装飾をつけても構いません。

ですから、同じ楽譜に依拠はしていないのが、その時代のバロック音楽です。

でもバッハは、ヴァイオリンとオブリガード・チェンバロ(必須なチェンバロ)との作品ではチェンバロの右手も左手も全部楽譜化しているので、ほかの演奏との比較ができます。

 ほかのバッハのフルートと通奏低音のためのソナタでは、装飾を入れてもいいように、通奏低音の例えばチェロとチェンバロに完全な楽譜化をしていないので、装飾の余地はあります。もちろんヴァイオリンも同じでゆっくりした楽章では、装飾を入れたり、早い楽章でも入れてもいいのです。それは自分自身の装飾であっても、その当時の市販されたそうした楽譜を使ってもいいのです。

そこが、再現芸術の比較と言ったときに、モーツァルトやベートーヴェンとは違うので、バロック音楽は敬遠されるのでしょうか。

バロック音楽好きの私にはよくわかりません。

みなさんはどう考えられますか。

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2018年2月14日 (水)

ベームとカルロス・クライバーという指揮者~その聴衆の熱狂~

さとちゃんの中学生くらいの頃、1977年の指揮者カール・ベームとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との来日がありました。

 

さとちゃんは、その当時上手くはありませんでしたが、サッカー部にいました。

それで、その模様はNHKFM放送で実況生中継されました。

部活が終わると、その放送をカセット・テープに録音するために、走って家に帰ったものでした。

 

その時の、演目はベートーヴェンの第五交響曲「運命」と第六交響曲「田園」で、鳴りやまない拍手の中で、アンコール曲は、ベートーヴェンのレオノーレ序曲第三番でした。

 

それより前の1975年のベームとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との来日は、後で、ブラームスの交響曲第一番の演奏だけは全曲をNHKで放送されたものをビデオに撮り聴きました。

75年の来日でのこの演奏は、ベームの弛緩は見られず、物凄いドイツ的演奏でした。

 

ベームは、ライヴでは録音とは違い、素晴らしい演奏があるときがありました。

77年の来日の際も、弛緩などなくベートーヴェンの演目が、非常にドイツ的な演奏に満ちあふれていました。

またイタリア・歌劇団公演やウィーン・フォルクスオパーの公演に熱狂的な日本の聴衆の皆さんが、その演奏に魅了されました。

1970年代ベームとカラヤンが、二大巨匠でした。ベームとカラヤンの来日は、日本の聴衆に熱狂的に受け入れられました。

 

ベームの公演の終了後、多くの聴衆が、舞台に寄りベームに感動した聴衆は、熱狂的に拍手をしていました。これほどの日本の聴衆を熱狂させた指揮者は、1970年代には他にありませんでした。

 

その後の指揮者のカルロス・クライバーの人気ぶりと同じです。

 

こうした伝説の1970年代というものは、LPや録音媒体は、カセット・テープでしたが、今よりもクラシック音楽の愛好家は多かったものです。

 

クライバーの人気は日本以外の世界の聴衆にもスタンディングオベーションとブラボーの嵐を巻き起こしました。

日本での1986年の昭和人見記念講堂でのベートーヴェンの交響曲第四番と第七番アンコールでは、J.シュトラウスの「こうもり序曲」と早いポルカ「雷鳴と電光」でした。最後の終止でブラボーの嵐でした。ベームの時と同じように多くの聴衆が、舞台までクライバーに感動して押し寄せました。多くの女性のファンが、クライバーに舞台に駆け寄り、花束を渡していました。

 

これほどのカリスマ指揮者は過去に例がなく、ベームの解釈とは違いますが、もうこれほどのブラボーを取れる指揮者は出ないのではないかとも思います。クライバーについては過去の拙文をお読みいただけると幸いです。

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2018年2月 2日 (金)

私のクラシック音楽、古楽への音楽的スタンスと評論

昔のクラシック音楽の評論家で、丹羽氏がいました。読売新聞で、コンサート評を書いておられた音楽評論家です。

氏は、わかりやすく簡潔に評を書き、恣意的な発言としての評論はしませんでした。こうした姿勢というものは立派なものだと考えていました。

あるとき氏の講演があって聞いていたのですが、そうした真摯な評論を書く人でしたが、その実際の音楽の好みは面白いものでした。

なぜ、モーツァルトはまだしも、ベートーヴェンはあんなくどい終止の音楽を作ったのか。ベートーヴェンは嫌いだとの意も言っていたようでした。

氏は、許光俊氏のように評論に自分の好みを書く人ではありませんでした。が、自分の音楽の好みは厳然としてあり、氏は、個人的に嫌いな作曲家もあったようです。

でもそうした恣意的なことは一切述べないのが、丹羽氏の評論でした。

氏の姿勢というものは、大変立派なものだと、講演を聞いて思いました。

クラシックの音楽評論は、音楽を聴き音楽家の解釈がわかり、それを聴いていない読者にも通じるように書くことが基本だと思います。

だから何度も言うように、さとちゃんが、丹羽氏が聴いたコンサートに行ったならば、こういう解釈だったと思うことは同じです。

ただそれが、自分の好みであるかないかは別として、そうした恣意的なことは書かずにその演奏がどうなのかの解釈だけ書けばいいのです。私も丹羽氏も同じことを思うのは、音楽を聴く人で分かる人も同じ思いだと思います。

私が、ささやかながら、僭越ながら、評論を書くのは、一人でも多く音楽のわかる人が増え、提灯記事ばかりしか書けない雑誌に騙されないようになって欲しいなと思うことです。

そのために、簡潔で、適切な言葉を選び、どんな人でもわかるようにわかりやすく、書くことが良いことだと思っています。

その演奏家が気に入らなくても、どういう演奏解釈かということに力点を置くことは肝心なことです。

クラシック音楽鑑賞の演奏家の好き嫌いは、言うべきではないと思って書いてきました。

それが、真摯なクラシック音楽の評論の目指すべき道だと思います。

確かに、好みというものはあっても、それはなるべく表に出さず、これからも書いていく所存です。

私の知ってる人で、自分の気に入らない演奏家は、ダメな音楽家だと言い切る人がいます。そんなにひどいのかなと聴いてみると、まんざらではないことがあります。

趣味なのだから、音楽鑑賞に恣意的になってもよいでしょうが、真摯な音楽評論というのは、そうしたものとは無縁だと思います。

皆さんは、どうお考えでしょうか。

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2018年1月 2日 (火)

ウィーン・フィルニューイヤーコンサート2018指揮リッカルド・ムーティその演奏とほかの指揮者

明けましておめでとうございます。毎年のお正月が来て、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートでシュトラウス・ファミリーや今回はスッペの曲などが演奏されました。

今日は昨日放送されたこの演奏会をHDDに録画したものを聴きながら、書いています。

 

このムーティの演奏皆さんどう聴かれたでしょうか。

静かな部分では、上手くウィーン風を演出しています。この剛腕な指揮者、ムーティらしさが出ているのは、曲の終止の部分での切り方、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の強奏では、彼らしい強引さが聴かれるものの、ウィーン風にちりばめられています。

実際に、今回もウィーン的ではなかったという、聴衆の方には、一応ウィーン風であり、ある程度は、満足された方もいらっしゃるのではないかと思います。

 

毎年、ウィーリー・ボスコフスキーの指揮の時から放送は始まっていました。1975年のボスコフスキーの演奏は録音されていましたし、1950年代のクレメンス・クラウスの指揮のものもモノラルながら、スタジオ録音でしょう、三枚のCDがありますね。

 

1979年は、ウィリー・ボスコフスキーの退団記念の年の録音や1987年カラヤンの最初で最後の指揮でした。

1989年と1992年はカルロス・クライバーの指揮による録音があります。

そうした話題をさらった指揮者の間で、このリッカルド・ムーティとクラウディオ・アバドとズービン・メータが間をぬって指揮をしていました。

 

その後、古楽のニコラウス・アーノンクールや小澤征爾やバレンボイムなど多くの指揮者がこのコンサートで振ってきました。

 

それぞれのスタイルで、ウィーン風ではない演奏も数々ありましたが、それも新しい個性としてウィーンのシュトラウス・ファミリーのワルツやポルカを聴きました。

今回のムーティのような年齢の人は、もうウィーン風というウィンナ・ワルツを知っていますから、このようなウィーン風な演奏もできましょうが、彼自身ももっと昔に登場した時には、弦は精妙、透徹した響きで、こんな演奏ではなかったような気がします。

 

さとちゃんは、毎年言っていましたが、シュトラウス・ファミリーのウィンナ・ワルツを各指揮者による管弦楽曲として聴いたほうが良いのではないかと書いたこともあります。

このウィーンのワルツやポルカを今後どのように聴いていくべきかはわかりません。

今年もウィーン風ではなかったと嘆くのが正解なのか、各指揮者による管弦楽曲として聴いたほうが良いのかは、私には何とも言えません。

 

まあ野暮なことを言わずに、お屠蘇気分で、この一月一日のコンサートをたのしむのがいいのでしょうか。

今では、ウィーン・フィルにも女性の演奏者さえ登場します。あれだけ、産休等でウィーン・フィルの音が変わることをおそれたウィーン・フィルの楽団員も変わりました。

とにもかくにも明けましておめでとうございます。

またNHKに準拠する曲目を書いておきます。

放送予定曲目

ヨハン・シュトラウス作曲 : 喜歌劇「ジプシー男爵」から「入場行進曲」

ヨーゼフ・シュトラウス作曲 : ワルツ「ウィーンのフレスコ画」

ヨハン・シュトラウス作曲 : フランス風ポルカ「花嫁探し」

ヨハン・シュトラウス作曲 : ポルカ・シュネル「浮き立つ心」

ヨハン・シュトラウス(父)作曲 : マリアのワルツ

ヨハン・シュトラウス(父)作曲 : ウィリアム・テル・ギャロップ

フランツ・フォン・スッペ作曲 : 喜歌劇「ボッカッチョ」序曲

ヨハン・シュトラウス作曲 : ワルツ「ミルテの花」

アルフォンス・チブルカ作曲 : ステファニー・ガヴォット

ヨハン・シュトラウス作曲 : ポルカ・シュネル 「百発百中」

ヨハン・シュトラウス作曲 : ワルツ「ウィーンの森の物語」

ヨハン・シュトラウス作曲 : 祝典行進曲

ヨハン・シュトラウス作曲 : ポルカ・マズルカ「都会と田舎」

ヨハン・シュトラウス作曲 : 「仮面舞踏会」のカドリーユ

ヨハン・シュトラウス作曲 : ワルツ「南国のばら」

ヨーゼフ・シュトラウス作曲 : ポルカ・シュネル「短い言づて」

アンコール

 

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