カテゴリー「芸能・アイドル」の8件の記事

2013年11月16日 (土)

薬師丸ひろ子と松田聖子の歌と作詞家松本隆 NHK連続ドラマ~あまちゃん~終了

今日はクラシック音楽の世界ではなく、ごめんなさい。アイドルの世界です。

私自身は、薬師丸ひろ子のファンではなく、昔、巷で流れていた、松田聖子の印象がつよかったような気がします。

 

今回のあまちゃんというドラマの中でキャスティングの成功というものもあります。

実際に、超売れっ子アイドルでありながら、春子役を小泉今日子を使い鈴鹿ひろ美役にかつての超アイドルであった、薬師丸ひろ子を使う。薬師丸ひろ子と言う、歌手として、多くのヒット曲や映画を残しています。

 

そうした、アイドルの世界で売れっ子だったのに、ある理由からデビューできなかった小泉今日子と初々しい能年玲奈、演技はできるが音痴であるという設定である、薬師丸ひろ子を起用したことにこのドラマの今までにない日本のドラマとしての、キャスティングの巧さがあるのです。

 

面白いことに、この小泉今日子も薬師丸ひろ子も巧い女優となりました。

 

薬師丸ひろ子の歌を聴いてみようと、YouTubeで、検索して聴いてみました。あなたをもっと知りたくて、メイン・テーマ、100粒の涙、コミカルな歌である、紳士同盟、セーラー服と機関銃などなど、今までに聴いたこともない曲も含めて、聴いてみると、こんな、歌詞だったのかと驚きます。

 

かなり少女趣味的ではありますが、この昔の女性なら、きっと持つであろう、恋への憧れなど、今聴くと時代が違うともいわれそうですが、非常に薬師丸ひろ子に似合うまた、松田聖子の曲に見られるようなぶりっ子の歌詞ではなく、若い女性の初々しさが、感じられます。

 

ところで、ここで驚いたことに、この薬師丸ひろ子の大部分の曲と松田聖子のほとんどの歌詞が、すべて、作詞家、松本隆であるのです。

何度か、松本隆氏の歌詞について、さとちゃんも書きました。

そこに、松本隆氏は、この二人の対照的な歌手に別々な世界の詞を提供していたのです。

松本隆氏の今後の活動も少し追っていくのも面白いかもしれません。

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2013年3月12日 (火)

秋元康氏

今、時代の寵児である。

秋元康と言う人物は、商売の巧いプロデューサーである。

昔、フジテレビで、おにゃん子クラブなるものを作り上げ、国民的アイドルグループを作り、プロデュースした、人物である。

 氏は、その中から、自分の好みの高井麻巳子とアメリカへ行き、結婚してしまったのである。

このおにゃん子クラブというものの現在での芸能界では、国生さゆり、新田恵理、工藤静香、など当時の現役の高校生を多数テレビに出演させ、今のAKB48のように、会員番号まで付けて、芸能界に売り出したのである。

 この素人の高校生を多数、使って、フジテレビの夕焼けニャンニャンなる、お化け番組を作り上げ、莫大な収入を得たであろう。

この夕方の平日の番組を見るために、わざわざ、早く学校から帰り、それを見ていた人は、多くいるはずである。

ともかく、現役の高校生である多くの彼女らを使い、多くの歌を歌わせ、金儲けしたことは事実だ。

その時に、現役高校生でありながら、喫煙するものがいて、おにゃん子クラブを追放された者も多かった。

どちらにしろ、女子高校生のトレンドを使い、巧い商売をしたものだ。

氏は、その時代のトレンドを作ることには、実に長けている。

例えば、世界で一つだけの花などと言う、よくできた詞を作る。

なるほど、時代の寵児だけあって、SMAPに歌わせれば、売れる。

内容は、なかなか良いもので、万人の心にも響く。

同じように、美空ひばりの川の流れのように、も彼の詞であって、これも、美空ひばりの行き着いた先としての心情にぴったりと嵌っている。

プロデュースとしては、実に巧い。

時々、巧いプロデューサーとして、顔を出す時もあったが、実際に、夕焼けニャンニャンの大きなプロジェクトが終わったあとは、一体何をしているのか、わからない。

そのあと、シャランQのつんくによって、モーニング娘の大きなプロジェクトが始まる。

平成を代表した、このモーニング娘というものの、つんくのプロデュースにより、モーニング娘は、紅白にも出て、この素人の10代の女の子を、スター・ダムに押し上げた。

つんくのプロデュースは厳しく、やる気のない者は、どんどん排除していく。大いに売れただろう。

ところで、秋元康は、もう一度、大きなプロジェクトを用意する。

AKB48である。

秋葉原のオタクから、一般の青少年まで、幅広く,投票させ、話題を作る。

そして、わざわざ大昔のアイドルのように、恋愛禁止のおまけまで作る、ある意味ではかわいそうではあるが、投票する青少年には、夢を振りまく。

恋愛を禁止した、プロデューサーの氏は、AKB48から追放するのである。

どうでもいいことだが、氏のトレンドづくりの巧さはここでも発揮された。

氏の時代が、もう一度、到来したのである。

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2012年9月22日 (土)

今の笑いとはなんだろう ~おじさんの立場から~

前に、お笑いのことを自分なりに分析したことがある。

 私自身、もうオヤジの歳でもあるが、世紀末には、ブラック・ユーモアという概念があった。

 20年前に新しい笑いとして、爆笑問題が出てきた時には、私も含め多くの人が笑った。奇想天外さが、笑えたのである。

 

 その前後の、ナイナイも光浦靖子やよゐこなども面白かった。一つには、パロディー的要素もあって、ナイナイの演じる、岡村君の演じる、たかしくんというキャラクターというものがあった。

 鼻汁をたらし、頭悪そうではあっても、どこかにこういう子がいそうな感じがして、これも、パロディー的要素でもあるが、そこに面白さがあった。確か、「とぶくすり」という、深夜の番組だったと思う。

 

 前述の爆笑問題は、その当時覚えているギャグで、こういうものがあった。

 まず、アニメの「巨人の星」というものは、まず若い人は、知らないであろうが、プロ野球選手を目指す、息子の星飛雄馬を父の星一徹が、厳しく鍛えることを称して、ライオンが、子のライオンを、高い絶壁からわざと落として子離れと成長を促すと言うシーンを、太田は、あのアフリカのサバンナのどこに、高い絶壁があるのでしょうと揶揄するのである。

 なるほど、巨人の星を見ていた人たちは、ああそうだなと笑える。

 これは、パロディー的要素なのかなとも思えるが、そうだよな、おかしいなとそのアニメを見ていた人たちは、感心して笑うのである。

 そうした、ナンセンス・ギャグと言っても、頭で笑える笑いだった。

 最近見た、テレビである中堅のお笑い芸人が、今の笑いを分析していた。

 今のお笑い芸人の言うギャグを、視聴者の若い人は、「うざい、分かンなーい、キモーイ」等の言葉使い、揶揄することで、ある種の自分たちの優位性を保てるのだという。

 

 今のお笑い芸人は、大概が、大卒であって、皆勉強ができて、普通の社会人と同じような、多くの知識や常識を持っている。

 また、その視聴者である、若者もそうした芸人と同じような知識や常識も持ち合わせている。

 そうでない視聴者は、前述の言葉を使い、軽く処理して、鬱憤をはらす。

 ともかくも、大体が、偏差値を別にしても、まずは、大卒のお笑い芸人とその視聴者も大卒が、主だから、何でも知っている。

 だから、わざと知らない振りをして、若い視聴者に媚びるのである。

 お笑い芸人も、視聴者も敢えて、知っていながら、知らない振りをしている、お笑い芸人を、分をわきまえていることを、前提として、お笑いと言うモノを聞いてやろうという、立場なのである。

 だから、芸人も、視聴者も、何でも知っているし、自分を隠している芸人が、たまに本音を言うところが、わざと楽しめる要素なのである。芸人の方は、わざと自分は出さずに隠している。

 

 爆笑問題は、あまり、勉強や社会通念としての知識は、大学の法学部や経済学部等を出ていないから、わからない。日大の芸術学部だからである。

 だから、太田総理と言われて、やっている番組は、太田自身が、政治や法学のことを分からないから、単なる持論となってしまって、社会を分かっている大人や視聴者は、面白くない。

 要するに、爆笑問題と言うのは、昔のお笑い芸人であって、今の若い視聴者には、合わないのである。

 だから、爆笑問題の両方が、今の若いお笑い芸人に合わせて、注意して、昔の芸風を変えてしまったのである。

 

 前述の中堅のお笑い芸人の分析では、今のお笑い芸人の笑いとは、デタラメなのだという。

 ギャグとしての意味もないし、めちゃくちゃである、たまに出る一言が、面白いと言うのである。

 

 それは、爆笑問題や北野武の毒舌の笑いでもなく、そんなの関係ねーという、お決まりのギャグである、一発芸でもなく、そうしたものを嘲笑う、違う性質を持った笑いなのである。

 シニカルな一種、ある意味で怖い新しい芸質を持っているのである。

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2009年8月 7日 (金)

酒井法子におもうこと

別にそれほどのファンではないにしても、彼女ののりピー語について知っているものについては懐かしい。
 現在、覚醒剤所持と言うことで、緊急手配されている。
 昔、対談番組で、もう、のりピー言語は、若い人は知らないし、言っても何のことかも分からないと自嘲気味に話していた。
 マンモスうれピーとは、マンモスが大きいので、物凄くうれしいとの意味らしかったが、私にとっては、別にそれほどの意味があるわけでもない。
 この子は、あり得る訳がない、設定でもあるが、一つ屋根の下と言う、テレビ・ドラマに出ていた。
 いつでも、血のつながりのない兄に思いを寄せ、必ず、台所で小さい兄弟たちのために食事を作っている。いつも、包丁で食事作りのために、けなげな後ろ姿なのである。
 You Tubeでの聴けるヒット曲、「蒼いうさぎ」では、手話でも歌っている。
 この子自身は、いい子なのである。
 私は思った。やはり、いくら性格のよい子であるにしろ、男によって、人間変わってしまうのだなあと思うことである。

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2008年2月 1日 (金)

2008/02/01 NHK昼の金曜バラエティ まんが太郎 昭和のいる こいる

最初にまんが太郎は、昔テレビで見たことがある。描く線を見ても、相当にうまいと思う。
 この道何十年である。描いた絵をひっくり返して、違う絵と見せる手法という芸もきっと何十年とやっているのだろう。確かに、誰かが当てたように、すぐ分かってしまったものもあったが、子供が見ても楽しめるもので、こういうのがひとつの芸風であり、食べていけるから何十年もやっているのだろう。
 一応古い手法とは言え、最後には、まんが太郎が今流行の「そんなの関係ねー」と言うギャクを取り入れる工夫もある。確かに古い手法で、毎日見てたら、また飽きるだろうが、こうした芸と言うのも、職人芸のようなものである。
 昭和のいる こいるは、もう相当古い漫才師であって、リンゴとモモコの司会(彼女たちも漫才師である)で、そのギャグを知っているよと言う風に、揶揄していた。もう古い漫才師であって、もうおじいさんたちである。
 でも、「そんなの関係ねー」と同じく、前に流行った、「何でだろう」と同じく、意味はないが、両手を機関車のように動かすナンセンスな芸をしているが、一発芸ではなく、言葉で笑わせてくれる。つっこみが「健康が一番」などというと「そうだよな。健康ならば、死んでもいい」と矛盾した言葉で笑わせてくれる。一言考えてみると、その可笑しさがわかる。
 もう何十年もやっているから、この漫才師は見たことがある。
 子供も笑っている。逆に舞台のそのときのお客さんの反応で、変わることもある。
 つっこみのほうは真面目に、人の痛みを考えなきゃいけない、と言うと、ボケのほうは、何でもいいんだ。笑いが一番だという。突っ込みは、何も考えていないと言うと。お腹のそこから笑うのがいいんだ、年中笑っていることが良いと言うと、会場が拍手するのである。
 で、即興で、ボケのほうが、そうですよ皆さん、では一本締めといって、手を打つ。
きっと自分たちが、今日の舞台でこれほど受けるとは思っていなかったのだが、子供も笑うほど、今日は一応、成功のようである。また予期していなかったに違いない。
 もちろんこの芸風で何十年もやっているのだから、毎日見てたら、同様に飽きるだろうが、一発芸だけでなく、言葉の面白さで笑わせると言う、漫才の原点がある。

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2007年10月13日 (土)

梨園と芸能界 ~市川海老蔵~

梨園とは、歌舞伎の世界である。この世界だけは、莫大な収入も入るし、世襲制度なのだから。市川海老蔵は、もう十代のころから、隠し子がいて、きっと親が、始末したのだろう。そういう世界であって、一般人の常識を超えている。よく、英雄色を好むと言う諺どおりに、この人自身は、恋愛から、今の役者としての一つのちからをもらっているのだろう、性癖である。若いし、梨園のことは、一般人には理解できない。
 ただ、この人は、大器となる人である。女の一人や二人いても、そんなことより、役者としては、優れたものを持っている。先々代の祖父に風貌が似ていて、本当に絵になる歌舞伎役者であって、将来を嘱望されている。だから、何も、いわれないのである。独身だし、若いし、見えもいい。  
だいいち歌舞伎役者の妻になるものは、その旦那の後援会等で、頭を下げ、この世襲制度を守っていかなければならないから、いくら見目が良くても、勤まらない。
それは、相撲の世界の親方と女将さんの関係と同じで、親方と結婚する以上は、必ず、部屋の力士も育てなければならない。並の人では勤まらないのは、歌舞伎の世界と同じである。

 芸能界と言うところも、恋愛スキャンダルがあれば、ワイドショーは、毎日取り上げ、結局はその芸能人の広告宣伝になるわけで、何も深いものなどない。20前後の若い男女が、大勢いるのだから恋の一つや二つあってもおかしくはない。
 思うのだが、子供を作って別れる芸能人もいるが、子供も育てば、また自分も芸能界に復帰でき多くの収入を得られるのは、わかっている。結局自分の後継者を作りたいのではないかと言うことも否定はできない。大体、見目の良い若い男女の子供だから、結局は宇多田ヒカルや安室のように別れようが、自分が稼げるのだから、いくら離婚しようと平気であって、一般人とも違うこともわかる。子供が育てば、美男美女同士なのだから、子供も綺麗な顔つき、スタイルとなろう。また有名芸能人の子供として、芸能界デビューできるわけである。松田聖子の娘などその典型である。
多くのファンが支持すれば、一生、稼いでいけるのがこの世界である。だから、一般人にはわからない。
 梨園と芸能界の色恋沙汰は、一般人には真似などできないし、一般人には理解できない。

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2007年6月 3日 (日)

松田聖子の曲とオフ・コース

クラシック音楽からはなれますが、たまにはこうしたお題も良いかもしれません。
昔の流行歌のはなしをしましょう。
 私自身の高校時代に、松田聖子は、デヴューした。デヴュー曲は、「青い珊瑚礁」。
もうプロモーションから、大ヒットするまで、数にしたら多分何千何万回とこの歌を歌っていたことだろう。松田聖子は、もうデヴューし、大ブレイクして、綺麗な高音は、出せなくなっていたのだった。松田聖子自身の大ブレイクしたそのとき、その声は失われてしまったのだった。
デヴュー当時から知っていたわけだから、ファンの友達のショックは、大きかったようだった。
そこで、松田聖子は、伸びる高音を出せない代わりに,ややハスキーな声となってしまい、声をつぶしてしまったので、今のようなかわい子ぶりっ子のような、声量のないややハスキーな声を誤魔化しながら、カワい子ぶりっ子路線で行ったのだった。
松田聖子のファンではないが、1980年代以降、彼女の歌う歌は、必ずベスト・テンに入るもので、歌う歌でヒットしないものはなかった。
私の驚いたことは、彼女の歌う曲の歌詞の松本隆の斬新な歌詞に感心したのだった。今までにない新しい歌詞だった。ファショナブルであり、少し恋愛経験のあるブリッコを演じる歌詞でもあったが、まるで、美しい、新しい歌詞は、斬新だった。
ちょうど、そのころ、オフ・コースが、ブレイクしたのだった。
小田和正の伸びる高音、斬新なアレンジ。ドライヴには、快適な歌でもあった。そのころ、高校のとき、何かの旅行で観光バスで、オフ・コースの曲をカセット・テープにダビングした者がいて、バスの中で聴いた。その当時、実に新しい曲ばかりで、バスの中で、その新しさに高速で走るバスの中で気分は良かった。

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2005年12月 8日 (木)

いかにお笑い芸人が、おもしろくないか

何でだろう。というネタの芸人は、全国的に知られたからまた、一世を風靡をしたから、今はテレビには出ていないが、各地方局なり、地方での営業で一生、生活できる。東京の各民放局で、バラエティーで人気の出た女子アナは、全国的に知られたならば、フリーで地方局での仕事が一生できる。旬の頃に結婚するものもいて、テレビの力は凄まじいものだ。  10年前だったろうか。爆笑問題が、人気の出始めたのは。一番の旬の時期なり、一番おもしろかった。 他に、おもしろかったのは、タモリと明石家さんまの形態模写で、出てきた二人である。声が似ているだけではなく、その人物が、きっと言うであろうという発言を想定しているので、まるで、本物そっくりだった。そのプロ・フェショナルに感心すると同時に、この2人は、他に多数の形態物まねも出来て、そのすごさはプロだった。コロッケの比ではない。 20年前には、漫才ブームがあった。太平サブロー、シローや島田紳助とのコンビや赤信号の三人組、そしてツー・ビート、北野武(ビート・たけし)とビート・きよし。関西のその当時のいわゆる日本一の漫才師西川きよしと横山やすしである。本当に腹を抱えて笑った。言葉で笑わせてくれた。そしてその笑いは、大人も子供も笑ったのである。よいこ、ナインティナイン(ナイナイ)、光浦靖子らの深夜番組でのお笑いも新しく、出てきた当時は、本当に笑った。今の佐賀県を売り物にしている芸人や、ギターを弾きながらのギャグを言う芸人は、私には面白くない。何でだろうも面白くない。子供の体操か、幼稚なギャグにみえる。加えて、いわゆる一発芸をするという芸人も同様だ。若いお笑い芸人の芸が、全く笑えない。被り物をしているから、面白いとは思えない。 練られた言葉で笑わせてくれるのなら、ナンセンスが突拍子もなく現れる爆笑問題ならある程度笑える。その他雑多な、お笑い芸人で、これはというものは私にはいないと思える。 今の笑いの質が、幼稚か、もしくはブラック・ユーモアである。青木さやかの笑いは、完全に、ブラック・ユーモアである。顔は整っていても、芸風が、ブラック・ユーモアなので、本当に、怖い顔をしている。 昔から、いじめられ役で、でている江頭2:50は、個人的に好きなお笑い芸人だ。そのキャラクターが好きだ。本当に、昔から貧乏で貧乏で、でも一生懸命生きているお笑い芸人として好きだ。彼は芸がないが、そのことを彼自身がよく分かっているのだろうとは思う。でもその芸がないところが、逆にひかれる。余りにも芸がないところが彼の芸風なのである。結局、いじめられるお笑いしか、彼の芸風ではできない。でも、それでも一生懸命その仕事をしている。本当に死ぬ思いをして、いじめられ役に徹しているのである。その芸人としての悲哀にひかれるのであって、彼がいじめられているバラエティー番組は見たくない。でもそのキャラクターは、本当に、芸人そのものなのだ。要するにいじめを楽しんでいるのは、視聴者で、それは10代か20代と思われる。いじめは、ユーモアではない。直接的に、人を殺してやると叫ぶ笑いは、笑えない。ブラック・ユーモア、殺してやるなどと叫ばれても、笑えない。幼稚な芸でも、笑えない。まだ、下ネタのほうがましだ。テレビでは、できないが。 キャイーンの2人は、キャイーンという一発芸では笑えないが、つっこみの天野は、頭が良いので、天然のウド・鈴木へのつっこみが絶妙だった。これも売れたから、別々に活動している。 個人的には、好きではない大御所、ダウン・タウン。ウチャン・ナンチャンは出てきた当時から好みではない。それと、とんねるずも出てきた当初から好きではない。石橋貴明は、不良を気取る芸風で何の芸もない。相方のほうは、俳優として成功している。 これら一応成功したお笑い芸人は、だいたいが分かれて活動している。司会者として、俳優としてタレントとして。 爆笑問題も、いずれ分かれて活動することとなるだろう。爆笑問題の田中は、つっこみであるが、太田のボケに対して、適切で絶妙なつっこみを見せるので、うまい。が、田中自身が言っていたように、いずれ分かれて仕事をするようになるときは水戸黄門のうっかり八兵衛のような役か、時代劇の下ピキのような、役柄でいけるかもしれないと言っていた。太田自身は、そのまま司会ができる。 最近の外国人タレントで、アフリカから来た、タレントを少しは見習ったらどうかとも思う。彼は、笑うツボを心得ている。若い幼稚なコンビ芸人より、よっぽど、言うことが面白い。とにかく、言葉で笑わせてくれ。大人でも笑える、笑いが欲しい。私自身は、パロディーは好きだが、その元になっている映画なりドラマのパロディーは知っている者に対して、練られたモノは、おもしろい。とんねるずやウッチャン・ナンチャンのドラマなどのパロディーは、そういうドラマの登場人物と同じ格好をしているだけで、パロディーとしておもしろくない。もっとヒネリが、必要で面白い格好をしているその俳優の似てもいないモノマネをやったところで、ヒネリがない。だから、おもしろくない。ただ、そのドラマなり映画を茶化しているだけで、または、練られていないので上質なまたは面白いパロディーになっていない。 コメディードラマでもコメディー映画でも、パロディーは一つの要素だ。よく練られているものは、それだけで楽しめる。脚本が、面白くなければ、B級映画ではあるが、そのB級映画は、B級映画としてのつまらなさが、おもしろい。余りにも、つまらないことで史上最悪の映画としておもしろい。 ウッディ・アレンの映画は、大好きだが、そのコメディーとしての脚本は面白い。アメリカ人でなければ、そのパロディーも完全には理解できないかもしれないが、私はその馬鹿馬鹿しさ、それもとんでもない馬鹿馬鹿しさだから、そこが面白いのである。 馬鹿馬鹿しさも突き通せば、逆に非常におもしろい。 脚本とキャスティングは、重要だ。ミス・キャストでは、脚本も半減する。コメディーというものは、見ている人を心の底から楽しませるエンターティメントでなければならない。だから、とんねるずのモノは、中途半端なエンターティメントで、もしこれが映画なら、金を返せといわれてもしょうがない。エンターティメントなら、金をたっぷり使い、脚本、キャスティング、演技、カメラ・ワーク、衣装、時代考証など練り上げなければ、楽しめないし、笑えない。 やはり、原作、脚本が良くないとドラマ自体が、陳腐となる。演技が出来てないのは、問題外で子供の学芸会を見ることは、遠慮したい。 おやじギャグは、つまらないといっても、それだけでも少しは考えて、自分なりにひねったのだから、それなりの面白さが、つまらないギャグよりはあると思う。少なくとも、一発芸よりも少しは大人の深みがある。

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