カテゴリー「文化・芸術」の8件の記事

2013年7月11日 (木)

きゃりーぱみゅぱみゅと日本の文化・芸術

最近、クラシック音楽の記事がほとんどなく、つまらない方もいるでしょう。クラシック音楽や古楽に飽きたわけではないので、いい放送やコンサートがあれば書くつもりです。

最近、眉をひそめる方もいるでしょうが、きゃりーぱみゅぱみゅと言うモデル出身の歌手がいます。
私は、この人のファンではありませんが、新しい社会現象として、興味深いものがあります。
何が、なんだか、中年のおじさんにはわかりません。
でも、欧米でのコンサートでは、物凄い人気なのです。
今は、日本でAKB48が、人気ですが、実際に欧米でのコンサートでは、きゃりーぱみゅぱみゅの人気は、AKB48より、盛り上がっており、フランスでの、フランス・ファンの熱狂ぶりには、驚きです。
暇つぶしに、YouTubeで見てみるとよいでしょう。

これは、社会現象というよりは、 Japan Coolとして捉えているのが欧米人なのです。

もし、国連の公用語である、英語、フランス語、ロシア語、中国語のほかに、この、簡単な日本語の歌詞を覚え酔おうとしている、外国の人もいるのです。

また、アメリカ人の子どもの中には、全く理解できないと言う意見を言う人も、youtubeではありました。
でもなにかしら、興味を示す子供もいます。

実際に、きゃりーぱみゅぱみゅより、他の話題はないのかといわれる人もいるでしょう。

日本と言う国は、多様な文化を持っています。

言ってしまえば、伝統芸能でもある、歌舞伎をフランスや、アメリカで、過去に亡くなった、中村勘三郎が演じ、大成功をおさめた公演もありました。

能と言う大変外国人には理解できそうではない芸術も、欧米人は理解してくれました。

さて、きゃりーぱみゅぱみゅです。

歌舞伎や能を演じる日本人と言う人種が生み出した、芸能・アイドル分野です。

この日本の文化と言うものは、多彩です。

この日本では、北野武といえば、お笑い芸人だと言う人もいるでしょう。ところが、フランスでは、彼の監督作品は、北野作品として、コーナーが、あり、多くの作品のビデオなどが売れています。フランスでは、北野武といえば、素晴らしい映画監督であって、お笑い芸人ごときものと言う評価はされません。

そうした、日本としての芸や芸術というもの、すべてを内包して、欧米人には、理解できない人が中にはいても、それを熱狂的に支持する人がいるのは、日本人としても喜ばしいことだと、思いはじめました。

ことは、きゃりーぱみゅぱみゅ、だけではなく、欧米にはない文化を、この日本が発信源となって、世界に知らしめている誇らしさを、日本人は誇りに思っても、少しも不思議ではありません。

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2012年12月 9日 (日)

日本人の子供好き

日本人は本質的にいって、子供好きである。一部を除き。
 江戸時代から、老人など大人が、路地で遊ぶ子供たちを見るのが、楽しかったし、ほほえましい光景だったのである。けんかでもしていたら、仲良く遊びなさいというような大人もいた。
 今から20年以上前、入院していた病室を離れ,近くの空き地に小学生、主治医の仲間の先生の子供と、どういうわけか、仲良くなり、小学生であるその子供たちと、四葉のクローバーを探そうと遊んだこともある。
 いまでは、小学生に「コンニチワ」と声をかけるだけで、110番通報である。
時代は変わったもので、昔の古きよき風習など、今はかけらもない。

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2012年11月11日 (日)

芸は売っても、身は売らない~都をどりという伝統芸能~

また、今日は全く違う話で、音楽の話題が最近少ないですが、もし良かったら読んでください。都をどりを、You Tubeで見ました。
検索してみるといいと思います。
 考えてみると、邦楽です。何か、こうした、踊りとなると、歌舞伎座の世界を思い出しますが、もう一度考えてみると、これは、全部女性です。
 でも、この邦楽の世界は、かなりの高額らしく、早々簡単には見られそうにありません。
 歌舞伎座は、今、新しく建築中です。男性しかいないわけですが、女形というもの、女性よりも、美しい、巧い役者さんもいますが、立ち見なら、1500円で一幕見られると思います。
 が、こうした芸者さんや、舞妓さんによる邦楽、をどりというものそう簡単には見られそうもないのでしょうか。実際にこうした、伝統芸能というものを、ただのお座敷遊びで、高まいな金額で、見せるのなら、逆に、こうした、邦楽、舞、を少額で、新国立劇場でもよいから、本当の芸者さんで、見せてくれれば廃れることはありません。
 私は、最初お座敷の芸者遊び程度のものか。と思っていましたが、とんでもありません。素晴らしい舞、踊り、唄です。こうした催しを、公的に国で、芸を育てることをしてもよいと思います。
 歌舞伎は、男だけの世界で、松竹が、運営しているから、いくらでも、この先持ちますが、こうした芸能、伝統芸能を、一握りの金持ちのために残すよりも、万民のために、公的に後世に残してしかるべきだと思います。
 実際に、NHKでも、芸能花舞台などで、かなりの高齢の芸者さんの舞も見られますが、そんな人間国宝みたいな、おばあさんの芸者さんだけでなく、もっと若い芸者さんや舞妓さんのをどりを、少額で見られるならばこれは、芸者さんの励みにもなるし、一般の人もこうした催しを見られると、これは、ブームともなります。
ただの外国人相手の物珍しさやジャポニズムではなく、これは、鑑賞の対象となる伝統芸術でもありましょう。
 見ていて、剣を感じるほどの、美しい、芸者さんもいて、驚きましたが、普段歌舞伎の世界として、全員が、男の世界と、鼓、笛、太鼓、三味線、歌、をどり全てが、女性なのですから、これもまた、大変にすばらしいものです。
 女性の芸者は、もう今では、職業としてあるので、昔のように、かわいそうな境遇で、芸者にならざるを得ないなどということはないのです。
 例えば、京都の舞妓さんも、全国から舞妓と言う職業をしたい人が、自分から修行をして、職業として応募するのが、現在の姿なのです。
 実際に、芸は売っても身は売らないのが、タテマエならば、文部科学省でも、助成して、芸者の芸を後世に伝えるべきだと思います。
 よく時代劇で、芸は売っても身は売らないとの芸者の見栄を切る台詞がありますが、これこそ日本の粋を示しています。

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2012年3月 4日 (日)

 日本の道 ~書道~

日本の古来からの、芸術という道というもの種種ありますが、かつて、習っていたものに書道がありました。
書道の展覧会などをたまに見ることはありますが、この筆遣いで、いい字を書いているなあと感心することがあります。

また、前衛的な書道では、何が書いてあるか分からないと言った考えを持つ方もいるかもしれません。
実は、書道の究極的なものは、自分自身の人の真似ではない、新しい字体をつくりだすことなのです。
例えば、「海」という字を書こうと思ったら、大きなデフォルメを使って、広い海を表現するために、自分独自の絵のように、字体を、自分で創作するのです。
逆に、小さな海を表現するためには、小作りに書くという創作もできるでしょう。
シケで、荒れた海を表現するために、尖ったような筆書きをする、創作もできます。

でも、そうした、域に達するようになるには、最初は、小学生から、習字を習い、高校生くらいになって、そうした、作品も書けるのであって、デタラメではないのです。

実際には、書道は、楷行草と言っているように漢字に関しては、楷書と行書と草書があるのは、ご存知だと思います。
大人の書道では、臨書と言うものが大きな鍵となってきます。
楷書の中では、唐の時代の書家である、「王陽じゅん」による「九成宮礼泉銘」の拓本が、有名です。これを、お手本にして、楷書の線、形の美しさを、練習して行き、楷書の良いお手本が、書けるようになるのです。
非常に、「九成宮礼泉銘」の拓本は、巧みな、楷書法であって、こんな線が、書ければ、と思うことがあります。
書体としても、筆遣いにしても、大変立派なお手本で、これを習いましたが、なかなか、難しいものです。
何十枚書こうと、そのようには、なかなか書けないものです。

行書では、東晋の書家「王義之」の「聖教序」を臨書しました。こうした字体や流れの線を習いつつ行書の、入門をしました。

楷書と行書までで、書道は、終わってしまいましたが、その後には、行書よりも崩した、草書が待っています。

さて、日本には「かな」文字があります。中国の漢字を崩して、昔はそれを「変体がな」と言っていましたが、そうした中国の漢字を元に、日本独自の「変体がな」というものを作り出し、のちのひらがなとカタカナになっていくわけです。

そうした、漢字も含む、「変体がな」や「かな」の流れるような、小筆で書く、連綿といいますが、これができるようになるには、まず数10年かかると思います。
こうした、かなのお手本には日本の平安時代の紀貫之の書をよく見ました。
これも、達筆の局地でこのようには、とてもとても、書けません。

こうした、基本があって、創作に進めるのであって、ただのデタラメではなく、前述の基本から、新しい、創作が生まれるのであって、一丁一石には、創作は書けません。

最近は、女子書道部が、人気ですが、テレビで見ていると、基本ができているので、大きな半紙で、身長近くある、大きな筆で書いていますが、立派な字を書いていると感心します。

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2007年10月21日 (日)

シャガール展、上野鈴本演芸場そしてN響アワー

  今日は日記みたいですが、上野にいっていきました。普通なら、フィラデルフィア美術館展を見るところでしょうが、へそ曲がりなので、産経新聞社主催のシャガール展に行ってきました。

 確かに、シャガールの功なり名を遂げた、1960年代以降の作品は、青の時代と呼ばれる美しい色彩的な作品もあります。赤を有効的に使う作品もあって、黒を基調とした、むかしのスタイルより、すばらしく色彩的感覚にあふれたものもあって、すばらしいものでした。今度暇があったら、フィラデルフィア美術館展にもいって見たいのです。
 普通ならば、フィラデルフィア美術館展をお勧めします。
 そして今日は、シャガールを見た後、パスタを食べて、どういうわけか、上野鈴本演芸場に行ってきました。
 私は、落語も大好きなのですが、寄席は久しぶりです。
 いや超満員。噺家さんによると、大入り満員のことを、バケタというのだそうです。
 逆に、入りが悪いと、ウスイというのだそうですが、今日はバケタというのでした。
 とにかく初日で、ものすごい入りです。
 むかしの噺家さんのことしか聞いていない私は、今の真打の話に魅了されました。
 決して、落語界の未来は暗くなく、名人になりうる噺家さんは、多数いるとびっくりしました。
 オオトリは、柳家小袁治師匠で、小三治一門だと思われます。
 漫才も見ましたが、ロケット団だったでしょうか、しゃべくり漫才の関東では、すばらしいものを持っています。ひょっとしたら、後数年がんばれば、かつての、爆笑問題のようになれるかもしれません。
 いつも、ビデオで、むかしの亡くなった名人のビデオなどを見ていますが、こんなに面白いのならば、落語も漫才も生き残るのは当然だといえるかもしれません。
 まあ確かに、観客の年齢層は高いですが、エンタの神様より、私の年代ならもっと面白く、こんなに笑わしてもらったのは初めてではないかとも思います。
 若い観客の中には、意味が分からない。というひともちらほらいました。
 落語の世界では、面白さが分からない人が、翌日になって、やっと分かるという鈍い人がいると笑われるのですが、若い人には即座にはわからないかもしれない。
 言葉遊びに慣れておらず、エンタの神様で満足している若い人なら、一度寄席を見てみることをお勧めします。
 いい噺家さんなら、感動と笑いに包まれること請け合いです。

N響アワーについては、もう何度も言うように、ブロムシュテットのいい指揮のものなのだから、全曲放送しろといいたいです。先週は、アンドレ・プレヴィンのモーツァルトの協奏曲だったらしく、聴けばブログをかいたでしょうが、アルコールを飲んでいつの間にか寝てました。
 温厚な手堅い指揮者のブラームスの二番の交響曲です。
全曲聴いてみたいのはわたしばかりではないでしょう。まあどうでもいいですが。

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2007年7月18日 (水)

西洋芸術と日本の芸術

何か、若い女性は西洋の宮殿や舞踏会やそれにまつわるワインやシャンパンなど、泡のように無くなってしまう西洋に特にヨーロッパへの憧れの強い人がいる。  ところが、そうした世界というものは、超上流階級のものであったり、売笑を伴うものであったり、金や貴族という地位を使って好き勝手なことをしている、オペラやオペレッタの数々である。憧れているほど、素敵な世界であることはない。フランスにしてもドイツでもイギリスでも、貴族や国王、ブルジョワの市民階級の贅沢さは、庶民や農民や各国の植民地の搾取によるものから来ているものが多い。  夢の世界ではあるかもしれないが、われわれ日本人から見てみると、すべてがそういう貴族だけであるとは限らないが、例えば、「椿姫」など、可愛そうな純愛ではなく、ヴィオレッタ自身は、高級娼婦であり、その前提で見ないと、舞踏会があって、お金持ちのセレブの世界だと、憧れてしまうと後になってその幻滅はあろう。19世紀から20世紀にかけてのオペレッタにしろ、結局にしろ金持ちの貴族の気ままな浮気騒動であったりすることのほうが多い。オペレッタ自身、19世紀の労働者階級による移民のための、そうした世界には入れない人のための、娯楽の意味合いもある。フランツ・ヨーゼフⅠ世のある意味では、政策でもあった。  そういう現実を知ってしまうと、18世紀のフランス革命のころやインドや植民地からの搾取でそうした、贅沢な世界が生まれたのであって、憧れなど何もない、下品で汚い世界とも一面ではいえる。  ならば、日本人ならば日本のこころを知るのもいいだろう。  虚構の世界が、西洋ならば、「技術は西洋にあり、徳は東洋にある。」と言っていた明治や江戸の世界こそ、よっぽど良識のある日本人の心に響く。  日本は、江戸の昔から、人情やそれは貧しさから来る、皆がそうであることから来る助け合いの精神でもあって、皆がそうだから、そうした人情や忍耐というものの我慢を皆がしていた。  私は、高校時代に歌舞伎を見たことがある。女殺油地獄である。大店の若旦那は、放蕩が過ぎ、借金もかさみ、親も勘当した。その若旦那は、金がなく、最後まで見捨てなかったある親戚の油問屋の若い伯母のところに行き、金を貸してくれと言うが、意見をされ、逆上した若旦那は、その伯母を殺害、店の油まみれになり幕が閉じる。  そうした本当に油まみれになり、人生を終わりにしてしまうばかな若旦那の物語である。  しかし私の心に残ったのは、その若旦那の父親の一言でもあった。親心として、何とかならないものかと言った諦めの気持ちを吐露する場面である。大店の父親とはいえ、わが子が、どうしてこうも放蕩するのかと嘆く場面である。この場面を見て、少なくともこんな息子にはなるまいと思ったものだ。  今の世の中、こんなことを思う者はいないだろう。金があれば何でもできると思っている人ばかりがいる。だが、ちょっと前まで、日本は、本当に、貧しい国であったのは江戸時代からでもあるが、幕藩体制の中、幕府の政策により皆が我慢をして貧しいながらも生きてきた、しかし決して、おのれを売るようなことはせず、寺子屋で読み書きそろばんは、皆習っていたのである。だから、明治に来た外国人たちは、この小さな異国の日本人たちが、識字率が高く、どんな人でも教養があったことに驚いたのである。  そうした、過去の日本におけるような、日本人の美徳と言うものは、昭和20年代から昭和30年代まではあったのである。高度成長期になり、どんどんそうした世界は失われていきそして、バブルを向かえて、日本人は拝金主義となってしまった。  昭和や明治の落語を聞いてみるとよい。いかに、皆が苦労をしてでもそれを当然として我慢をし、その中で、皆を思いやりながら生きてきたことが、昔の録音による落語を聞いてみるとわかるのである。今の若者が、聞いたらただの貧乏人の昔の話だと馬鹿にするものもいるかもしれない。でもそうした、日本人の過去の美徳というものを聞いてみると、現代の私たちは、頭が下がる。  昔の丁稚奉公であった、子供たちは、店の奉公のため家を出てしていて、今のように土曜、日曜はお休みなどというものはない。家に帰れるのは、正月と盆だけである。父親と母親は、丁稚奉公をしている息子が、その日に帰ってくることを楽しみにしていて、その子供の好物を用意してやり、いつ帰ってくるか長屋から、外へ出て待っている。その日一日だけしか帰れない。帰ってくると、親は、子供にこれを食べないかあれを食べないか、着物をやろうかなど言い、可愛い息子の成長を誇りに思っている。きっと今なら、中学生か小学生くらいの少年だろうか。そうした、江戸の噺や、人情これは、落語では人情噺である。  こうした古きよき時代の日本人同士の美しき人情というものは、これは欧米にはないものである。こうしたものを見たりすることのほうが、虚構の欧米の夢物語に憧れるよりより、よっぽど価値があるかもしれない。  ただ、欧米の虚構の世界であっても、芸術を所望するのは、貴族であっても、その芸術なり、建築などを手がけるのは、その道のプロであって、貴族は何もせずに手に入れるが、それを作る側の作曲家や脚本家、作家、工芸職人や建築は、多くの修行をして、そうした芸術品や工芸品や絵画などを作り上げるのである。立派な君主や貴族はいたであろうが、その所望した作品に対して、すべてを否定すべきものではない。  今の時代であってもそうした、欧米の芸術品や建築物や古典音楽などは、貴族が命令して作らせたものであっても職人が作り上げた珠玉の作品でもある。そうした、西洋の古典であっても今に残っているのなら、必ず価値のあるものであるともいえる。  ベートーヴェンであろうとモーツァルトであろうと今でも演奏されることは、欧米の芸術品でも、日本でも価値があるだろう。そして、その演奏に命をかけている演奏家も存在する。美術品とて同じで、その国の国宝級のものであれば、修復し後世に残すのは、現代の人間の務めでもある。

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2007年5月10日 (木)

日本一と世界一

欧米生まれのスポーツや芸術関連のものを、日本人が小さいときから身に付けて、練習を続けて、選手なり芸術家になったとしても、日本一になることはできる。日本一になることは、日本人としてその欧米のスポーツや芸術関連のものが、日本国内では一番なのだから、国内だけでは認められる。でも、世界一になることはできるかどうかは分からない。
 そうしたものが、欧米では、伝統として厳然としてあるわけだから、日本人の範疇では分からないことがある。イタリア・オペラなら、日本人であってもイタリア語の発音や意味がわからなければ、イタリア・オペラの心を伝えられないから、日本人は分からなくともイタリア人には嘘がわかる。でも、日本語の歌なら、絶対に欧米人には歌えないし、その歌の心は、わからない。
 もし、世界一になりたければ、欧米や東南アジアや中国などにない、日本古来の芸術なり、スポーツを学べば、日本人であるのだから、小さいときから勉強すれば、外国にはないのだから、日本一とのお墨付きをもらえれば、それは、世界一を意味することができる。
古典舞踊や茶道や華道や歌舞伎、能など日本の古典芸能である。日本古来のものは、日本人にしか分からないからである。外国人が、いくら日本語がうまくてもその外国人の範疇では分からない。日本人は、小学校から高校、もしくは大学まで言葉や歴史は、日本語で憶えるのだから、外国人がいくら、真似しても、日本人にはなれないのと同じである。日本人なら努力すれば、好きなら自分で古典を勉強すれば上達する。外国人が学ぶよりもっと効率よく理解できるし、身に付けることができる。書道は、中国に漢字の達人がいるので、日本一即世界一にはなれない。一般の欧米人は、日本人が外国へ行ったときに、日本古来の武道をやっていたというと尊敬される。剣道や極真空手など、オリンピックにないものをやっているともっと神秘的だと、外国人には思えるようだ。

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2006年9月24日 (日)

ウィリアム・ホガース

ウィリアム・ホガース(1697~1764)の描いた絵の写真を見たのは、数十年前だった。ヘンリー・パーセルのキャッチのCDの表紙が、ホガースの「放蕩息子の遍歴」の部分だった。父親の遺産を受けたトム・レイクウェルは、その遺産の金で、放蕩を続け、無一文となり、債務のカタで、牢獄に入れられる。そのトムの脇で、金欲しさに結婚した、片目の醜女とその子供にせっつかれて気も触れんばかりである。そのもう一方の脇には、トムの愛人が、気を失っており、トムとの間の私生児の子供がその脇にいる。この絵が最期の方の絵であった。その放蕩息子は、一連の連作である。
 CDのジャケット写真は、その連作の最初の方で、まだいくらか金のあるうちで、酒場女に囲まれてだらしない格好で、酒を飲んでいる。トムは、自分の懐中時計を盗られているのにも気が付かず、一人の酒場女からもう一人の酒場女にトムに気付かれないようにその時計を渡しているのである。
 ホガースの銅版画で、怖ろしいものは、「ビール通り」と「ジン横丁」である。
 その当時のイギリス、ロンドンでは、ビールを飲むことは、健全であり健康的であるとの考えがあった。「ビール通り」の版画では、皆がビールを飲み、恰幅が良く、皆楽しそうに働いている健全な街、まさしくビール通りである。
 一方、「ジン横丁」では、皆全て、が痩せこけ,首吊りが見える家もあり、赤ん坊が、ジンで酔っている母親の手から、階段下に、まっさかさまに落ちていく瞬間である。階段に座って飲んでいる母親は、ジンで酔いそんなことも分からない。
 その当時のジンは、悪徳、犯罪を引き起こしかねない元凶として、ホガースはこの、ビールとジンを対照的に描いたのである。
 ジンは味は良いが、強い酒である。少量で、酔いが回る。ジンに溺れて、一日が過ぎる。麻薬のようなもの、ジンのアルコール依存者で、その横丁は成り立っている。
 数十年前、CDの表紙だったホガースの絵であったが、ホガースについては、後になって知ったことで、イギリスのバロック期の大作曲家、ヘンリー・パーセル(1658~1695)の作品集の録音のCDである。まさに、猥雑なキャッチの数々。二、三人から三、四人で、輪唱のように、酒を飲みながら、酒場で酔いながら皆で歌う、酒場の音楽、歌である。輪唱だから、今のカラオケとは違い、一人で歌うものではない。だから、今の下手なカラオケよりもより、音楽的であるともいえるが。パーセルのキャッチとホガースの絵、実にお似合いである。

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