カテゴリー「恋愛」の6件の記事

2013年5月 5日 (日)

結婚をしたら後悔するだろうでも結婚をしなくても後悔するだろう~婚活について考えるの巻~

今、婚活をしようという人が増えています。
結婚することが、目的になっているのです。ある程度、会社員であって、いくばくかの給料を貰えていれば、結婚もできましょう。
でも、相手のことが、好きだから、一緒にこの人と生活したい、人生のパートナーとして、最適だ、相手の性格が、非常によい。
といったことなどなど、そして結婚をする決意をすることは、並み大抵のことではないのです。

婚活とは、結婚する相手をただ探すだけとなってしまって、そのことが相手のよい面やこの人と人生を歩めると言うように、相手のことを知ることが、一番大切なのに、結婚することが目的になってしまっています。

昔のアメリカの唄で、somebody loves me と言う、ビング・クロスビーの歌った歌が、あります。
文字通り、誰かが、私のことを愛しているんだとの意ですね。
石原裕次郎の唄で、誰かが、誰かを愛している。と言う歌があります。文字通りですね。
どちらにしろ、まだ生まれていないので、リアル・タイムではありませんが。

結婚というものは、私は独身なので、結婚生活を語る資格はないかもしれません。
でも結婚は、就職活動とは違うのです。自分を偽ってでも、企業の気に入るように、自分をより高く、売ろうとするのが、就活です。
自分の売り込みが、すべてなのです。

結婚というもの、ムリして、結婚するものではなく、相手のことを知ることが、肝心なことです。
結局一年二年付き合って、相手のことを知るコトこそが肝心要であることを忘れている人がいます

大部分の若い人は、割と計画的に、考え、自分もこの人とならやって行ける。
ならば、家庭を持とうと考えることが、一番肝心なことは、芸能人でも同じで、死ぬまで添い遂げる人もいます。

若いときは、結婚願望は強いものです。わたしもそうでした。

何のために、婚活をするのか、蓼食う虫も好き好きと言う言葉もあります。
縁は異なもの味なものと言う言葉もあります。

とうとう、結婚適齢期というものも、どうやら期限が来たらしく、そうなってしまうと、料理も洗濯も掃除もできれば、嫁入らずです。

結婚と言うものは、縁のものともいいます。
焦らず、アラサー、アラフォーなどと自分のことを卑下せずに、ムリしてまで結婚しないのも、一つの生き方であることは、まえにも言いました。

確かに、出会いの場と言うものは、少ないのは事実ではありますが、スキでもない人に、相手のことも知らないのに、結婚するというのはひとつには、ムリを背負うことでもあります。
自分を必要以上に、良く見せて、売り込むことが、結婚ではないのです。その結果、結婚をしたら、後々後悔する結末ととなるのです。

結婚をしても、結婚をしなくても、ないものねだりをするのが、人間です。
どちらにしても、後悔するだろうというのは、これは、ヨーロッパの格言というよりは、ブラック・ジョークです。

恋は、死ぬまで直らない。と言う歌詞がある日本の歌謡曲がありました。
当然、私は生まれていません。
~恋をしましょう♪~恋をしてと言う大昔の歌があったそうです。

結婚するにしろ、しないにしろ、自分で答えを出すことが、必要です。
どちらにしろ、後悔しないためにも。

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2011年7月 7日 (木)

恋愛とセックス

昔は、そうした性風俗の店、もっと昔は、赤線という男の遊ぶ場所があった。
 よく、バンカラなどという学生が、女郎買いに行ってどうのこうのと自慢するものがいたりしたようだ。
女を買うのが、自慢だったり、する。
もう古いが、爆風スランプの歌で性春ナンタラカンタラというバカな歌があるが、それも中学生ならではの、青春であろう。
こんなことをやっていたら、レイプ犯罪になってしまう。
 青春期に女のきょうだいがいると、女子というものがわかる。ああこういうことは、女というものは嫌うのだなとか、こういうことにこだわるのかとか、姉や妹がいると、なんとなくわかるものがある。
 よく、小学生の高学年に女子が、姉や妹が、いつもと違う年頃になる。女性の生理である。小学校で、男子と女子で別れて、性教育を受けた。
 ところが、男だけの兄弟だと、女というものを身近に感じないので、強引だったり、女というものへの、デリカシーを持たない、青春期の男の子がいる。
 愛というものは、究極的には、そばにいてくれるだけでよいとか、一緒にいてくれるだけでいいんだというものらしいが、若いときには、男性には、性欲としての欲望が大いにあり、青春期には、女性も愛されたいと思うが、男性は直接的なものであっても、女性は恋に恋している、少女趣味の人もいる。
 これでは、若い男は、愛しているんだと言っても、体目当てなのは、見え見えである。それでも、若い女性は、愛されていると言っては、その体を投げ出して、後悔したりもする。
 我々の頃には、中学や高校で付き合って、セックスをするということは、まずあり得ない時代であった。
今の恋愛歌を聞いているとわかるが、今はごく普通のこととなってしまっている。そうした歌は、感覚的な恋愛であって、相手をいろいろと知ることの前に、第一印象で、出会う感触が良いと、寝てしまうのである。最初に寝てしまったら、相手のことを理解する前に、終着点に行ってしまう。若いから、フリー・セックスも結構だが、二人ともが、したいだけならそれでもいいが、それでは、何の面白みもない。
 で、第一印象で相手のこともわからなくても、感覚的に合うということで、寝れば愛になってしまう錯覚に陥ってしまうのが、昨今の10代の恋愛歌である。
 風俗というものは、金を払って女を買うものであって、恋愛とは違うものだろう。
 それは面白いだろうが、その後の空しさは、いかんともしがたいのではないか。
 
 恋愛というものは、熱病であって、見境がなくなることもあるにはある。
わたしは、一目惚れということはまずないが、そういう人もいる。どちらにしろ、相手と話すことも肝要であって、相手を愛するなどというより、相手のことを知らなくては、つまらない。逆にいろいろと話していくうちに、愛しさが湧くうちに、自然とそうなっていくことが、普通に思えるのだが。

 ただ、常に異性のことを考える人もいる。が、今付き合っている人がいないからといっても、その人は今は異性を必要としない時がある。性的な欲ではなく、いま自分にとって
仕事やほかのことが、忙しく異性を今はおきたくない場合もあろうし、面倒な場合もある。何でも、異性を常に持つことにこだわるのが昨今だが、異性がいなくとも、今の自分に必要なければ、悪友がすすめようとも、女が寄ってこようとも、必要ないときもある。
 これは、男も女もおんなじで、恋愛だけが人生の全てではないからである。

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2008年4月 6日 (日)

あみんの「待つわ」と石川ひとみの「まちぶせ」の恋愛感情

 「待つわ」という岡村孝子の歌を知っている方は、いるかと思います。
 二人組の女性でもう一人いて、ハーモニーを作っていましたが、その詞のことと、恋愛について考えてみたいと思います。
 要するに好きな男性が、自分(女性)に振り返るまで、待つというものです。好きな男性が、ほかの女性に振られる日まで、待つわ。というものです。そして、男性を自分のものにしたいという願望です。
 また、昔の歌謡曲で「まちぶせ」という、石川ひとみの歌があります。これも、好きな男性を振り向かせるために、その女性は、わざと気を向かせるために、いろいろなまちぶせをしていろいろなことをして気を引こうというものです。
 両方とも、大ヒットした歌なので、知っている方もいるでしょう。
 どちらにしろ、若いときの一途なもしくは、狂信的な女性心理を描いたもので、そう思っている女性で、将来も独身を貫く女性もあるかもしれない。でも男性心理としては、おそろしいの一言でしょう。
 NOならば、NOなので、そのまま突き進んだら、ストーカーになってしまいます。それは、女性でも男性でもです。
 心底思っていれば、相手も振り向くかといったら、駄目なものはだめだというのが、女性でも男性でも、本当でしょう。両方で、好意を持っていても親が認めない、不倫関係や立場上の何らかの障害となるものがある場合もあり、自分の思うようにはいかないのが、若いときの恋愛かもしれません。男性も女性もその人だけではありません。もっと良い人がいるかもしれないのです。
 だから、失恋というものは、時が解決してくれるもので、執念深く思っていても、どうにもならない場合のほうが、多いことを知るのも必要です。
 失恋だけではありません。人の人生は、人それぞれの悩みを抱えながら、皆が生きているのです。こんなことを言う資格はないかもしれませんが。でも、一度好きになった異性というものは、振られても、振っても、あとは幸せになって欲しいと思う方が、良いでしょう。
 明日は明日の風が吹くかもしれません。辛い夜が来たら、往年の女優ビビアン・リーの役スカーレット・オハラの映画「風と共に去りぬ」での台詞ではないですが、「明日のことは明日考えよう」と言って、その日は終わりにして、疲れ切った体を休めることも必要でしょう。
 これで、すべてが終わりのはずがないのです。終わったことは終わったこと。
すばらしい明日が待っていると考えて、眠りにつきましょう。
 あとは、時が、解決してくれます。

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2008年2月10日 (日)

尽くす女

今の若い女性で、自分の夫に惚れ尽くして旦那に尽くす女性というものはいない。
 私は、旦那に惚れてその旦那に尽くす女性というものがいるのではないかという、幻想にとらわれていたことがあった。
 ある人が言うには、子供がいるから勝ち組ではなく、旦那の収入の多いか少ないか、要するに多ければ勝ち組で、そういう経済的余裕がある、女性が、勝ち組なのだと言う人がいた。
 それは、まだ若い方の人である。
 また逆に、六十代か七十代くらいのおばあさんだが、子供がいて、夫という人は、アルコール依存症なのだと言う。でも本当に惚れぬいたから、河岸の市場で、10キロ、20キロの荷物を運び、夫と子供を食べさせたのだと言う。その人は、普通のおばあさんで、さらっとそう言うので、悔いなどない。旦那に尽くしあげたのである。
 また他のおばあさんは、これも尽くす話だが、旦那の疲れを取るために、全身のマッサージをしてあげるのだと言う。足も、マッサージしたために、その旦那の水虫の菌が、手に移ってしまうほど、尽くしたのだと言う。その人も尽くすと言う言葉を使わず、だって、旦那なんだから、当たり前のことでしょ。とはっきり言うのである。


「あげまん」という昔の、伊丹十三の監督をした映画がある。旦那やその男に、その男の手助け、(もちろん家庭内、女としての務め)その男が社会的成功を得るために、その男への助言と女として、その男へのできる限りのことをして、迷っている男を出世のために、導いてくれる女である。結局その男は、大銀行を追われてしまうが、でも、「あげまん」の宮本信子は、いいのよ、私が食べさせてあげる。と言って、幕になるわけだが、そんな女性がいると言うことは、ただの幻想には過ぎないと言うことは分かっていても、そんな女性「あげまん」がいたらなあ。と思うのはこの映画を見たからである。
もちろん、失業者の面倒を見てくれるということではなく、この女のために、尽くしてくれる女のために、もう一度働こうという気にさせてくれることが、そのような方向に持って言ってくれるのが「あげまん」の真髄である。

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2007年9月15日 (土)

昔は良かったというのは自己満足 ~元気を出して~

松任谷由実の歌は、大概が、若い女性の気を引くような旨い詞である。かつての恋愛を思い出し、昔を回顧するのである。
 そんなものなど忘れてしまえばよい。要するに昔を回顧して、自分に酔っているだけである。そんな事を言ったら、過去を振り返れば誰でも、一冊本が書ける。
 カクテルでも飲んで、バーテンダーに話しかけるような一人で来ている若い女性というのが、ショット・バーには必ずいる。寂しいから来ているのであって、松任谷由実の世界である。
 松任谷由実は、かつて荒井由実の頃は、自分の体験を歌にしていたのであるが、今では、結婚し、かつての夢物語は創れない。だから、サングラスをして、帽子を被って、喫茶店に行き、一人でお茶を飲み、若い女性のおしゃべりを注意深く聞いているのである。だから、今でも若い女性の心理を掴むことができる詞ができるわけで、そういう意味では、作品を創るというよりは、自分で取材して作り上げてしまう商売である。
 どちらにしろ、過去を振り返り、泣くことはあろうと、いつまでも泣いていてはどうしようもない。昔の過去にどっぷり浸かっていては、何もない。
  アルコールを飲むとそんな、愚痴も出てこようが、美空ひばりではないのだから、悲しい酒ばかりでは、気も滅入る。確かに世の中、気の滅入ることばかりではある。
 が、恋愛に敗れたなら、それでひとつの区切りであって、終わりではない。恋愛だけが人生でもない。20代というもには、必ず結婚願望なり、恋愛願望というものはある。
 あせる必要はない。30になるとオバサンになるとか40ではもう終わりだとか言うものでもない。50代で結婚する人もいる。
 逆に結婚して、子供ができても、実際に育児というものは、大変なものでもある。世の風潮で、玉の輿に乗ってセレヴになろうなどと愚かなことを考えるから、結婚に失敗するのでもある。結婚には忍耐は必要でもあるが、今はすぐに別れる者ばかりでもある。
 どうでもいいことだが、負け犬だと勝手に思い込んで、悲観するより、竹内まりやの「元気を出して」でも聴いたほうがよい。

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2007年2月11日 (日)

故宇野千代女史

後年のお婆さんになったときの風貌しか知らなかった。この作家、恋愛遍歴も凄い者で、なぜかというと、その若いときの写真を見ると、モノクロでありながら、物凄い美人なのである。まるで、映画女優のようである。こんな人に、自分から「あなたが、好きです」と言われて、良い気分のしない男があるわけがない。こうして、新婚の甘い生活が、4,5年続くわけだが、蜜月時代を過ぎると、もう終わりである。彼女自身、結婚生活と言うものに対して、それで終わりである。それ以上の我慢と言うものもしないし、男の方も飽きてくるわけである。
 だから自分自身、恋愛はしたが、世に言う結婚の努力なり、辛抱はしなかったわけで、普通の結婚生活は、送れなかったわけである。
 その繰り返しであって、長きに亘る結婚生活は、送れなかったわけである。
 別れてくれと言うと女史も、別れるわけで、それで全く問題が、お互いになかったわけである。

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